人生も後半戦! これから先も楽しもう!

人生も後半戦になったら、これまでの生き方に後悔することもあります。しかし、後悔しても仕方ない。この先楽しく生きるためにいろんなことに挑戦

小説から学ぶ表現、描写 小川糸さんの食堂かたつむりより

 

 そしてふと我に返って窓の外を見やったら、もうすでに夕方になっていた。夕陽に照らされて、一瞬、景色のすべてがマーマレードたっぷり塗ったような表情になる。

 

 

 雪に埋もれたなだらかな景色は、真っ白いシーツを広げたダブルベッドのようだった。そこへ、ハルミ君がいきなり背中からジャンプする。ボクも、ハルミ君の隣に寄り添うように倒れ込んだ。その瞬間、ふわりと雪に抱かれる。

 

 

 ボクは、その場に立ち竦んだ。色が白いことも背が小さいことも極端に痩せていることも馬鹿にされるのは慣れている。けれど、「オカマ」という単語だけは、耳にした瞬間、体の外側を覆う皮膚と内側の内蔵が引っくり返りそうな感覚になる。

 

 

 牧場の草原一帯にしろつめ草が咲き誇り、真珠を撒いたように輝いている。

 

 

 初めて聞くお妾さんの声は艶やかで品があり、表面のデコボコやザラザラをすべて紙やすりできれいに磨いたようだった。私はお妾さんの声にうっとりした。その時、虹色の色彩をまとった若かりし日のお妾さんの残像に、ほんの一瞬だけど、触れたような気がした。

 

 

 まるで、春の陽だまりみたいな優しい声で。

「ご馳走さまでした。大変、おいしゅうございましたよ。どうもありがとう」

 

 

 今回は、背中の肉を使い、マスタードをたっぷり塗った肉の上からパン粉で包んでアーモンドオイルでローストする。パン粉には、細かく刻んだニンニクとルッコラが混ざっている。羊の脂の融点が低いので後味がさっぱりし、いくら口に入れて噛んでも、飲み干した数秒後にはふぅっとそよ風にさらわれるように姿を消してしまう。おなかがきつくなっていても、すんなりと入ってしまうのだ。

 

 

 スープの中で温まった鶏をまな板の上に引き上げ、ナイフでざっくりと身を切り分ける。中に詰めていたごぼうやもち米から、上等な鶏のスープを含んだふくよかな匂いのする湯気が立ち上る。匂いをかぐだけで、体がぽーっと熱くほてる。

 

 

 甘鯛のカルパッチョものせる。甘鯛は約半日昆布で締めたものに、塩とオリーブオイルをかける。その皿を出し終えてから、ようやく次のサムゲタンスープの準備に取りかかった。

 

 

 軍手をはめて専用のナイフで牡蠣の殻をこじ開けると、ぷっくりとした大きな身が現れる。私は、何もかけずにそのままの状態で白い皿の上に生牡蠣をのせた。

 

 

 でこぼことした山道を、ゆっくりと、しかし確実に前へ進むかたつむり号にまたがりながら、私は秋深まる青空を見上げた。

 クラゲのような薄い雲が広がっている。心臓も骨格も骨もない巨大なクラゲからは、ちゃんと触手が伸びている。

 

 

 髪の毛は七対三の割合で白髪の方が優勢だった。小柄だけど骨格はしっかりし、白とブルーのストライプシャツに質のよさそうなウールの紺のベストを着ている。首元には臙脂色のスカーフをさりげなく巻いていた。

 

 

 頭の中には、新しくオープンさせるお店のアイデアで、カラフルなマーブル模様ができている。

 

 

 空には玉ねぎの薄皮みたいに半透明の薄い雲の膜が、ぴったりと貼り付いている。雨のシャワーを浴びたばかりの森の木々や草花達は、皆、キラキラと輝いている。

 

 

 だんだん、忘れかけていたふるさとの地図が、写真を現像するようにじっくり時間をかけて甦ってくる。頭の中にある昔の地図のその上に、新しく建った家や新しくできたお店を追加する。

 

 

 祖母と過ごした毎日が心に染みる。涙がこぼれ落ちそうになったけれど、喉の辺りでせき止められた。

 

 

 私は、あることに気づいた。

 昨夜窓口で高速バスのチケットを買おうとした時、いや大家さんに鍵を返しに行った時、いや、もぬけの殻となった部屋のドアを開けた瞬間から。

 自分の声が透明になっている、ということを。

 それは、簡単に言ってしまえば精神的なショックからくる一種のヒステリー症状ということなのかもしれない。

 

 

 私は一晩中ドーナツを食べ続けた。生地の中にケシの実を入れ、シナモンと黒砂糖をまぶした優しい味を、私は一生忘れないだろう。

 胡麻油でふんわり揚げた一口サイズのそれを口に入れて頬張るたび、祖母と過ごした日向ぼっこのような毎日が、ふわふわと泡のように甦った。

 

 

 いつからだろうか? 私は将来、プロの料理人になろうと決めていた。

 料理をすることは、私の人生にとって、薄暗闇に浮かぶ儚げな虹のようなものだった。

 

 

 水滴がいっぱいついた窓ガラスを拭くと、 真っ黒い闇の中に、自分の顔が映っている。バスは高層ビルの立ち並ぶ街を抜け、高速道路をひた走る。

 

 

 東の空に、中途半端な形の月がポカンと浮かんでいるのが見える。

 

 

 さようなら。

 私は心の中で手を振った。

 目を閉じると、これまでの出来事が、木枯らしに舞う枯れ葉のように脳裏を駆け巡った。