人生も後半戦! これから先も楽しもう!

人生も後半戦になったら、これまでの生き方に後悔することもあります。しかし、後悔しても仕方ない。この先楽しく生きるためにいろんなことに挑戦

原田マハさんのまぐだら屋のマリアの表現、描写

 

 女将の胸に抱かれて、マリアは泣いた。真珠の粒のような涙が、赤みのさした頬をすべり落ちる。女将の口もとにふっと微笑が点った。

 

 

 克夫がにじり寄り、女将の背を支えて静かに抱き起こした。女将はようやくまぶたを開いた。焦点の合わない目で前を見た。マリアの顔を。

 

 

 マリアの瞳が震えている。風が吹き抜けた水面にも似て、揺れている。

 

 

 ずっと遠くに、鈍色の海が静かに横たわっている。

 線香の青い煙がすがすがしい香りを放って、冷たい風に流されていく。

 

 

「待ったら、いけんがな。あれは、もう、帰ってきゃあせん」

 女将の声が紫紋の鼓膜に重たく響いた。

 

 

 糸がふっつりと切れてしまったように、記憶はそこで止まっていた。

 

 

「え、ほんと?」

 マリアは、花開いたような笑顔になった。

 

 

 いつもは紫紋より三十分遅く出勤するマリアが、目の前に現れた。ふいに胸が鳴った。真っ白なノースリーブのワンピースを着て、長い髪をさっぱりと結い上げている。

 

 

 目の前が急に拓けた。なだらかな斜面に苔むしたたくさんの墓石があった。背中を丸めた群衆のように密集して立っている。彼方に海か浮かんで見え、群青の帯を作っている。その手前には尽果の集落、家々のトタン屋根や瓦屋根が初夏の光を弾いて光っている。

 

 

 海の日を過ぎてもまだ雨が降ったりやんだり、紫紋は、空と海を灰色の絵の具で溶かしてしまう季節にうんざりしていた。

 

 

 泥のように重たい後悔に、いままでずっととらわれていた。けれど、この場所でのさまざまな人びととの出会いが、清水となって少しずつ泥を洗い流してくれた。

 

 

 ひび割れた唇がやっと動いた。

「……つまんねえ話、ですよ」

 

 

「優しいのね」

 囁くような声がした。紫紋は、こっそりと視線を上げた。薄暗い裸電球に照らし出されて、濡れたような瞳がみつめている。

 

 

 四月の初めまでぐずぐずとみぞれまじりの空模様が続いたが、ときおり正気に戻ったかのように、明るい日差しが空いっぱいに満ちあふれる日があった。やがて、三寒四温の言葉通りに、寒い日とあたたかな日が数日ずつ交互にやってきて、四月も終わりに近づいた頃、薄暗い幕をすっぽりと切り落としたように春になった。

 

 

 あ……あ……あ……あ

 紫紋の口が、全身が、わなわなと震えだした。開いた口から、声にならない声がこぼれ落ちる。

 あ……あ……あ……あ

 

 

 海から吹きつける強い風に、シーツがあおられるようにして雪が舞い上がる。傘は差していても役に立たないので、畳んでしまった。

 

 

 銀色に広がる雪景色の真上には、凍(しば)れる空の青がしんとして広がっていた。

 

 

 今朝、霜柱を踏みしめたとき、紫紋の脳裏をかすめたふたつの風景があった。

 広々とした故郷の畑。初霜が降りた日、思う存分踏みしめて遊んだ少年の日。きんと冷えた新しい朝、吐く息の白さまでもが蘇った。

 

 

「そがに思うて、ほれ、特別におっ母が作っとる畑で採れた大根、持ってきたがね」

 新聞紙の包みを差し出した。中からふくらはぎほどもありそうなみずみずしい大根が現れて、「うわあ」と紫紋は歓声を上げた。

 

 

 安物のコートを羽織って出勤する。途中、霜柱をみつけて、さくさくと足の裏で冬の到来を知る。

 

 

 その刹那、マリアは不思議な表情を浮かべた。泣き出す瞬間のように瞳がかすかに震え、かたちのよい唇がうっすらと歪んだ。どきりとして、紫紋はその白い顔を凝視した。

 

 

 女将の言葉は、紫紋の耳朶をしたたかに打った。それはとうてい、信じることも受け入れることもできない言葉だった。

 

 

 女将は箸を手にすると、無言で食事を始めた。熱い汁をすする音、浅漬けを噛む音、やわらかな鮭のたたきをおごそかに口に運んで、女将はずっと無言だった。

 

 

 マリアは、紫紋の少し先を歩いていた。無造作に結んだ長い髪が、ダッフルコートを着こんだ背中の上で揺れている。月光を弾いて跳ねるつややかな魚のような動きをみつめながら、紫紋は黙って彼女の背中についていった。

 

 

 急須のふたにきちんと指先を添えて、彼女がお茶を淹れている。桜貝のような爪が並んだ左手の指先に、紫紋の視線は吸い寄せられた。

 

 

 カウンターの上にある鍋敷きにやかんを置き、傍らの樺細工の茶筒のふたを開ける。さらさらと音を立てて、深緑色の茶葉が白無地の急須の中にこぼれていく。そこにゆっくりと回しながら湯を注ぐ。

 こぼこぼと湯の落ちていく音、深遠な響きに、紫紋の耳がとらわれる。

 

 

 

 出ていかなければ。このセーターが、乾いたら。

 そう思いついたとたん、知らないうちに点っていた胸の中の火が、ふっと消える気がした。

 

 

 目鼻立ちの整った顔だ。年の頃は三十くらいだろうか。若い頃にはない落ち着きと陰影が細面をいっそう美しく見せている。思いがけなく名画を見た気分で、紫紋はむさぼるように彼女の顔をみつめた。

 

 

 洗いざらしの七分袖のシャツに、膝丈のプリーツスカート。すらりとした背中に、無造作に結んだ長い髪の束が垂れている。つややかな黒髪が揺れるのを紫紋の目が追った。伏し目がちの顔がカウンターに向かい合う。水道水を流す音がし、食器を洗う音がし始めた。

 

 

「あの、近くに……ATMとか、ありますか」

 とっさに言い繕った。ATMがあったところで、口座の残高は三百円かそこいらだ。東京を出るときに、母への最後の仕送りをすませ、手もとに残った三万円でどうにかここまでやってきたのだった。

くすぐったく笑う声がして、「この崖っぷちに?」と言葉が続いた。

 

 

 そこまで一気に言ってから、ちらりと目を上げた。好奇心に彩られた瞳と視線がぶつかる。一秒もみつめ返せずに、紫紋は目を逸らした。

 

 

 紫紋は両手を腹の上に置いて、椅子の背にのけぞって天井を仰いだ。頭の中が真っ白だった。体の隅々まで、煮魚の甘辛い味が、ほくほくとしたご飯のぬくもりがいきわたり、痺れるような幸福感が満たしていた。

 

 

「いらっしゃい」

 明るい声がした。くつくつと煮える鍋のあぶくの音が、その声に重なる。

「開店まえでたいしたものはないけど……何食べたい?」

 それが、出会って最初のマリアの言葉だった。

 

 

「あの……すいません。おれ、すっげえ腹減ってるんですけど」

 長いまつげの伏し目が、ようやくこちらを向いた。紫紋は、はっとした。

 何言ってんだおれ? いきなり入ってきて、見ず知らずの人に向かって腹減った、だって?

 澄んだ目が、瞬きもせずに紫紋を見ている。

 

 

 その人は一心に手もとに視線を落として、ちらりともこちらを見ない。どこか楽しげな表情が色白の顔に優しく広がっている。紫紋は何か話しかけようとして、なかなか口を動かせなかった。

 

 

 じわっと口の中に唾液がこみ上げる。急に痛いほどの空腹を覚えた。無意識に腹を片手で押さえながら、紫紋は吸い寄せられるように戸口に近づいた。手を伸ばして横に引くと、拍子抜けするくらいすらりと戸が開いた。

 とたんに、いっぱいのかつおの香りに包まれた。醤油と砂糖が絡んだ甘い香りと、鍋の中でやわらかく何かが煮詰まる音。紫紋は室内を見渡した。

 

 

 ふと、かすかな香りが鼻先をかすめた。馥郁(ふくいく)とした香りは、追いがつお。煮えたぎる湯に向かってさっと放てば、こんなふうに香りが花束のように広がるのだ。

 

 

 なつかしい風情の入り口の引き戸の横に、土色の肌の大きな壺が置いてあり、大ぶりの紅葉の枝が投げこんである。いとも自然に、形よく。染みるようなその赤をみつめるうちに、これは廃屋でも民家でもない、何かの店だ、と紫紋は気づいた。ゆっくりと顔を上げて、引き戸の真上に掲げてある木製の看板の流れるような手書き文字を目で折った。

 

 ま……ぐ……だ……ら……屋……

 

 

 後輩には厳しく接しなければならないとわかってはいたけれど、何を教えても童顔の目をきらきらさせて聞き入っている様子を見ると、とても厳しくなど当たれなかった。

 

 

 そんな紫紋に、とうとう後輩ができた。浅川悠太。北東北地方の寒村の貧しい家庭に生まれ育ち、家計を助けるために中学卒業後上京、料理屋で見習いを始めたという。赤いほっぺたの童顔のせいで、とても二十歳には見えなかった。

 

 

 母の笑顔が目に浮かんだ。ほんとうに嬉しいとき、母は顔をくしゃくしゃにして、泣いているような笑い顔になる。その顔が見たくて紫紋はがんばってきた。

 

 

 頭も心も胃袋も空っぽの自分を座らせてみた。からからに干からびたミイラのような自分の肉体を鎮座させる。

 

 

 バスが去っていった道は、ずっと向こうの方で緩やかにカーブして、かすみがかった空中にふっつりと消えるように見えた。道路か丸く膨らんでいるところが海に向かって少しせり出し、小さな崖のようになっている。その崖っぷちに小屋が立っている。

 

 

 皺くちゃのスカーフを首に巻いた老女が、陰気な目でこちらを見据えている。紫紋はあわてて窓を下ろし、すみません、ともぞもぞ口を動かした。老女は何事もなかったように窪んだまぶたを閉じている。

 

 

 海は凪いでいて、透き通った日差しを反射してちらちらと蠢(うごめ)いていた。じっとみつめていると、それはどうも生き物のように感じられるのだった。