人生も後半戦! これから先も楽しもう!

人生も後半戦になったら、これまでの生き方に後悔することもあります。しかし、後悔しても仕方ない。この先楽しく生きるためにいろんなことに挑戦

小坂流加さんの余命10年の書き出し

 

 ゆらゆらと街は陽炎(かげろう)で揺れている。

 林立するビルの窓は灯台のように明滅している。すれ違う電車の残像が光を引いていく。雑踏の先から路地裏へ駆け回る子どもたちはコンサートの上に点滅する光を踏んでいくように走り去る。騒がしい声とすれ違ったバスから降りた乗客は光に刺されると小走りに建物の下にかろうじて伸びていた墨色の影の下に逃げ込む。自動ドアが開くと、焼けた肌を冷風が癒す。入ってきた人間は一様に安堵の息を漏らす。

 白い天井と白い壁で守られているその場所は真夏から取り残されたような場所にあった。この夏、茉莉(まつり)は窓からしか夏を見ていなかった。白で塗り固められた天井と壁は寒々しく、リノリウムの床に差し込む光の揺らぎも弱々しかった。窓辺に置かれたひまわりと、赤い算数ドリルの鮮やかな色彩もこの空間に元気を吸い取られたかのようにしぼんで見えた。

 礼子の心臓の鼓動を刻む機械音が室内に響いている。

 規則的にしたたり落ちる点滴がまた光った。

「茉莉ちゃんは、人生に後悔はない?」

 シーツよりも白い肌をした礼子がほほえみながら言った。

 茉莉は黙って耳を傾ける。

「ありがとうと、ごめんねと、好きです。それがわたしの後悔。言えずにいた人たちに伝えたい。『ありがとう』は今はアメリカにいる高校の頃の先輩。なかなか友達ができなくてひとりぼっちで隠れるようにしてお弁当を食べていた私をその人だけが見つけて、話しかけてくれた。『ごめんね』は小学校の頃飼っていた犬が産んだ子犬。うちでは飼えないって、母が近所の獣医さんのところに連れてっちゃったの。親と離れ離れにしちゃったこと、謝りたい。『好きです』は学生の頃バイトしてたお店の店長。不倫になるから言えなかったけど、今なら言えそうな気がするわ。言うだけよ。愛は芽生えないから安心して。だって私の愛はもうたったひとりの人に芽生えてしまっているからね」

 礼子との最後の会話だ。翌週、礼子は旅立った。天国という、誰も見たことのない場所へ。

 礼子の病室の前の廊下で泣き崩れているのは、彼女の夫だ。その腕に抱かれながら、ランドセルの男の子はぎゅっと唇を噛んで宙を睨みつけている。その子が握りしめている算数のドリルの赤色が、遠くから眺めていた茉莉の目に映えた。夫は悲痛な声を上げて泣きじゃくり、子供は細い腕で父親を抱きしめているようだった。

 たまにロビーで顔を合わせるうちに言葉を交わすようになった礼子が死んだ。それはまるで、10年後の未来を見せつけられているようだった。

 茉莉は礼子と同じ病を体に宿している。

 20歳の夏、彼女は初めて人の死のリアルを見た。