工兵隊長の唇はわなわなと震えていた。ようやくそれだけを言うと、隊長は総司令官の前であることも忘れたように、水筒の水を音をたてて飲んだ。
荒れ果てた工場が建ち、どんよりと風の動かぬ、モノクロフィルムのような風景の中に、巨大な煙突が何本も魔物のように佇んでいた。
朝の日課を何の前ぶれもなく中断させられた将軍は、言葉より先に両手で机を叩いた。
海老沢はこの数ヵ月の間ずっと考え続けてきた暗い物語が、春の光と風の中で揮発してしまうような気分になった。
丹羽は大声で笑い出したとたん、笑いきれずに切ない溜息をついた。
川面を渡ってくる北風に身をすくめながら、真柴はまっすぐに病院を目ざした。
「貴様のように首席で卒業して、一選抜で陸大に合格すれば、まさかこんなことにならなかったろうってな。考えてみれば、勉強しなけりゃ殺すぞ、というのと同じだ」
男は痩せた歯茎を剥き出して笑った。
真柴司郎にとっての戦後は、時計の秒針を見つめるような、長い、耐え難い年月であった。
焼け残った議事堂の上に、巨大な夕日がただれ落ちようとしていた。
小泉は厚いメガネの底で目をつむり、体じゅうの空気を吐きつくすほどの溜息をついた。
気温は朝早くから三十度にかけあがっていたが、秋の匂いのする乾いた風が長かった夏を吹きさますように、飛行場の草を薙いで翔け抜けていた。
色のない唇をきつく結び、黒目の勝った大きな瞳を見開いて、少女は真柴を睨んでいる。頑ななほど、目を外らそうとはしない。
丹羽は無精ヒゲの立った顔をほころばせて海老沢に目配せを送った。
日が山の端に沈むと、示し合わせたように梨畑の油蝉の声がとだえ、かわりに雑木林のあちこちから甲高い蜩(ひぐらし)の声が、群青の空を突くようにカナカナと鳴き上がった。
金原は厚い唇を開けて、獣じみた大あくびをした。
卓上に置かれた古時計の秒針が、結論を強いるように時を刻んでいた。
ころころと笑い続けるさまは少女のようである。
街道の喧騒とはうらはらに、脇道を入った住宅地には、すでに新年を迎える静謐さが感じられた。
金原庄造の豪壮な屋敷と地続きになった一角に、マッチ箱を連ねたような古い借家が棟を並べている。
岩肌に谺(こだま)する声は、鈴を振るように高く澄んでおり、どの体もまだ一人前の女にはほど遠い。
小泉の声は無人の講堂に立ったように、わんわんと谺(こだま)した。
小泉中尉は天井を走るパイプを懐中電灯の先で追って、闇の中に配電盤を探しあてた。
言いながら、海老沢は体がしぼむような深い溜息をついた。これはどうやら、この男の癖であるらしい。
「どちらに参ればよろしいのでありますか」
わざと体の力を抜き、話し相手を周囲に悟られぬように、なるべく平易な口調で真柴は訊ねた。
坂道を登りつめたあたりで、真柴司郎はたぎるような炎天を見上げながら顎を拭った。
「え、私?ー私は関係ないもの。仕事はここまで。じゃ、あとはよろしくね」
コンクリートの回廊に硬い靴音を響かせ、看護婦は風のように去って行った。
とりちらかった床板の酒や肴にまみれて、老人はぼんやりとサッシ窓の小さな冬空を仰ぎ見、白い太陽のありかに目を細めながら、ひとしきり胸を膨らませると、そのまま動かなくなった。
ふと見上げた老人の目が、ただれ落ちるような涙をたたえているのを見て、丹羽はぞっとした。
「十億?」、と老人は青ざめた唇の端を歪めて笑った。
低くたれこめた冬空にもかかわらず、妙に生暖かい日であった。バックストレッチの彼方に多摩丘陵の山なみが霞んでおり、すりガラスごしに見るような白い太陽が傾きかけていた。それさえも不吉な落日に思えた。