人生も後半戦! これから先も楽しもう!

人生も後半戦になったら、これまでの生き方に後悔することもあります。しかし、後悔しても仕方ない。この先楽しく生きるためにいろんなことに挑戦

柚木麻子さんの本屋さんのダイアナの表現、描写

 

 身体の柔らかい部分が次々に切り裂かれたように痛み、彩子は上手く息ができない。

 

 

 ティアラの作ってくれた水割りはちょうど良いバランスで、きんと冷たく、するすると面白いように喉をすべり落ちていく。

 

 

 ダイアナは目を見開く。身体中の血が暴力的にかき集められ、心臓目がけて迫ってくるのが自分でもわかった。ありえない。そんなの、ありえないー。

 

 

 武田君の失望しきった。そして今もっとも聞きたくないかつての親友の名に、全身が錆びてぼろぼろとはがれ落ちていくような敗北感を味わった。

 

 

 彩子は唇を噛み、涙のたまった目で父を睨み付けた。反論出来ないことが何より口惜しかった。

 

 

 日か高く昇り、並木道の青葉が照らされて香ばしい匂いを放つ。

 まだ五月なのに、真夏を思わせるような日向くささだ。

 

 

 少し前までは黄金色だったイチョウの葉がすっかり落ちて、細い枝が寂しく揺れていた。

 

 

明るい茶色の髪に無精髭、色艶の悪い顔は二十代とは思えない。毛のはえた太い指で彩子を指し示す。

 

 

 ティアラは煙草に火を点け、煙を吐き出した。青い光の中、小さな竜のように天井に昇っていくそれをしばらく見つめていた。

 

 

 一羽の鳩がぐるぐると喉を鳴らし、淡いピンク色の胸をのけぞらせた。ちょん、ちょん、とダイアナの足下までジャンプしてきたが、こちらにその気がないのを察すると、たちまちふっくらしたお尻を向けて去って行った。

 

 

 背の高い男が白い歯をこぼしてこちらを覗き込んでいた。色白の顔は少々不健康そうだが、目鼻立ちは整っていた。年齢に対して目の周りには皺が多く、それが優しげにも艶っぽいようにも思えた、Vネックのニットから見える痩せた首筋には、これまで彩子が一度も見たことのないような複雑な骨組みとのど仏が浮いていた。

 

 

「ほら、もってけよ。揚げたて! 一個やっから」

 武田君に無理矢理押しつけられた油染みのある紙袋はほんのり温かい。親子面談前にこんなもの持たされても困る。早く食べてしまわねば、と仕方なくコロッケを取り出し、さくりと歯を立てた。じゃがいもはほくほくと甘く、衣は香ばしい。

 

 

 長い廊下には九月の夕日が差し込み、とろんとした桃色で満たしている。校庭のヒマラヤ杉がグラウンドに複雑な形の影を伸ばしていた。

 

 

 思いがけない申し出に、明るい光が心に差した。先ほどまでの追いつめられた気分が薄れていくようだ。

 

 

 人の気配に顔を上げると、文芸部顧問の高柳修太郎先生が、銀縁眼鏡の奥の思慮深そうな目を細めて、こちらを覗き込んでいた。白髪まじりの髪がさらさらと柔らかそうだ。

 

 

 つぶらな瞳とふっくらした桜色の唇は甘くたおやかなのに、格好のいい顎やぴんと伸びた背筋には芯の強さと知性が感じられ、草原にすっくと咲くあやめのようだ。

 

 

 古風なブラウスとモスグリーンのベストにプリーツスカートの制服は、白い肌とつやつやした黒髪、すらりとした長身を最大限に引き立てていた。

 

 

 湿気をふくんだ風が頬をなで、雨が降る直前の甘くほこりっぽい匂いを感じた。

 

 

「じゃあ、あんただけでも食べな。たこ焼き、好きでしょ」

 彼女に勧められるまま、折りたたみテーブルの上に無造作に投げられたその温かな包みを開いてみた。かりっと焼かれた丸いたこ焼きにピンク色のソース。食欲をそそる香ばしい匂いにうっとりする。一口食べて思わず、わあっと叫ぶ。こんがりした表面からとろりとした生地があふれ出す。明太子とチーズが信じられないほどまろやかでよく合った。

 

 

「『ぐりとぐら』もそうだったでしょう?」

 懐かしいそのタイトルにダイアナの心にぱっと花火がはじけた。

 

 

「はい、ゼリーと紅茶よ」

 ダイアナは目をぱちくりさせ、彩子ちゃんのお母さんの差し出した湯気の立つマグカップと半分に切ったグレープフルーツに詰まったゼリーを見下ろす。ダイアナにとってのゼリーとは、コンビニで買う、透明のカップに入った濃い色のものだ。ところが彩子ちゃんの家では、生の果実をくりぬいて器として使っているのだ。彩子ちゃんにならってひとすくい口に運ぶと、爽やかな香り高い甘酸っぱさがぷるんと弾けた。あまりの美味しさにしばし恍惚となる。ぽってりとした素焼きのマグカップを両手で持つと、なんだかほっとする。

 

 

 真っ黒な目は濡れていて焦げ茶の毛はまるでキャラメルのようになめらかだ。抱きたい気持ちはあるけれど犬に触るのは初めてで、つい腰が引けてしまう。

 

 

 玄関で出迎えてくれた中年の女性は化粧気がなく、皺や白髪も目立つのに、透き通るように綺麗で汚れのない空気をまとっていた。紺色の眼鏡に長い灰色のカーディガン、あせた緑色のゆったりとしたパンツという地味な格好なのに、なんとも優雅で好ましい。

 

 

 金色の透けるような髪、びっくりするほど小さな顔。大きな瞳は相手を吸い込むような深いはしばみ色で、長い睫毛がびっしり縁取っている。

 

 

 カーテンが風にふくらみ、ふんわりと二人を包み込む。教室の喧噪が一瞬遠のき、世界はダイアナと彩子だけのものになった。春が始まったばかりの、しんと冷たくて、それなのに日向くさい風が頬をなでた。

 

 

 彩子は大きく目を見開いた。綺麗な顔にやさしい微笑が広がっていくのを、ダイアナは息を詰めて見つめた。

 

 

 真っ先に、綺麗な子だ、と思った。華やかな顔立ちではないが、目鼻立ちが整っている。陶器人形のようになめらかな肌、形のよい広い額はいかにも頭が良さそうで、髪は習字の墨のように黒々とつやがある。

 

 

「ねえ、その髪の毛、どうしたの? 自分で染めたの?」

 気の強そうな味噌っ歯が唇から覗き、探るような目で尋ねられた。

 

 

 外でティアラに名前を呼ばれるたび、周囲の人は一斉に振り返る。ダイアナとティアラを見比べると、誰もがははあ、と合点がいったように肩を竦め、皮肉な笑みを頬に貼り付かせる。

 

 

 自分の番がだんだんと近づいてくることが怖くて仕方ない。頭がぼうっとし、みぞおちの辺りがしくしくと痛み始めている。