凜子の瞳の湖に、ふたたび風が吹き渡った。水面が、みるみる急上昇した。
「辞意、撤回なさい」
すっぱりと言った。凜子の瞳が、一瞬、風が吹き渡る湖面のように、かすかに揺れた。
伊藤さんの言葉に、私の胸はふたたび大きく波打った。
島崎君は、長いことためていた息を放った。そして、言った。
「総理。日和さん。……おめでとうございます」
「このたびは、ご支援、ほんとうにありがとうございました」
母は、いつものように、つんと取りすました表情だったが、凜子の言葉にふっと笑みを口元に寄せた。そして、返したのだった。
「やったわね」
私は、心が震えた。熱いものがこみ上げた。感謝の気持ちをすぐに伝えたかったが、選挙を乗り切るまではと、胸にとどめた。
「それ、いいなあ。いつも、上を向いて歩いてる。すてきですね」
彼女の言葉が、私の胸をやわらかくくすぐった。私は、目の前に大きく開けた空をみつめながら、彼女と私、ふたりで、どこまでも、歩いている姿を思い浮かべた。
その笑顔に、私の中の芽生えが、いちだんと明るい光を得たかのごとく、ぐんとまっすぐに伸びるのを感じた。
絢爛と花を咲かせている桜が、はらはらと音もなく花びらを散らし、池の上に白い帯を作っていた。
体温を奪いさるほど冷たい声で、凜子が言った。
全身に鉛を詰め込まれたかのごとく、重過ぎる足取りで、私は公邸へと帰った。
「それだけ?」原氏は、ぴくりと目の下の皮膚を動かした。
そう言って、上目遣いに私を見た。大きく開いた白いシャツの襟元に鎖骨のくぼみが見える。そのくぼみの下、あとちょっとで胸元が見えてしまいそうで、私はまたもや目を剃らした。
口の端を微妙に持ち上げてにやりと笑った。その笑い方は、ちょっと黒幕っぽい感じがして、再び私の興味を引きつけた。
私は、新聞各紙のページをあっちこっちひっくり返しながら、ロメインレタスの葉をしゃくしゃくと噛み締めた。みずみずしい味だった。
ようやく夏の熱気が遠ざかり、庭の木々に初秋の風が訪れているのを感じる。ツイイ、ツイイとシジュウカラのさえずりを耳にしながら、さわやかな気分で表門へと向かう。