浅田次郎さんのおもかげの表現、描写
「名前は、何ていうのかね」
電灯を背にして影絵になった男の顔を見上げ、峰子はきっぱりと答えた。
小鳥の囀ずりがかすかに聞こえる。壁や天井に青みがさしてきた。二万何千回もくり返された、僕の夜明け。
ほんの一分が二分、いったい何を話したのか、身を切るような寒さと低い鈍空(にびぞら)しか記憶にはない。節子は僕のうしろに、所在なさげに佇んでいた。
薄く紅をさした唇をぐいと引き結んで、節子は涙を流した。
たった一年。やはりどう考え直してみても一年。毎日を鑿(のみ)で刻んでゆくような一年だった。僕らは若過ぎて、恋愛が成就されない予測がついたから、一瞬を大切にしたのだと思う。
ああ、と胸の潰れるような声を上げて、カッちゃんは真白な溜息を吐いた。
そう言うそばから、次々と掘り起こされてゆく記憶の鶴嘴が、がつんと岩を噛んだ。
マダムは小さな顎を掌(てのひら)で支えて、雪の夜を見つめていた。いくらかなごり惜しそうな表情だった。
白いタイルのくすみ具合も、いくらか波打った床も、太い円柱の艶も、人間と同様ごく自然に年老いていた。
そこは青梅街道の交叉点に近い路上だった。古いアーケードが、僕らを綿雪から庇ってくれていた。
蛍光灯がくたびれ果てたように瞬いていて、夜空は思いがけないほど暗くて広かった。
東京にはこんな雪がよく似合う、舞うでもなく緞帳(どんちょう)のように滑り落ちて、とたんにアスファルトを黒く染めることしかできず溶けてしまう雪が。
雪が降っていた。天使が花籠から振りまくような、やさしくてやわらかな綿雪だった。
なるほど、齢なりに美しい人である。銀髪は短く整えられていて、青みがかったメガネがよく似合った。貴婦人の風格を感じさせた。
セッちゃんからの電話を受け取ったときは、鮨屋の椅子を倒して立ち上がった。何も聞かないうちから、何が起こったのかわかった。
俯いた武志の横顔を、雪降る窓が縁取っていた。
愛想のない廊下が続く。正一がどうなろうと、これでいっそう病院が嫌いになるのはたしかだと思った。
綿雪の降りしきる中に、救急車が停まっていた。回転する赤いランプが煽り立つ炎に見えて、永山は立ちすくんだ。
たそがれとともに雪が落ちてきた。
降るでもなく、舞いもしない牡丹雪だった。フロントガラスに当たって潰れ、たちまちワイパーにかき消されてしまうひとひらが、はかない命に思えた。