しかし直貴は答えられなかった。唇を噛み、孝文を睨みつけていた。
「誰だい、それ」孝文は直貴の視線をはねのけて訊いてきた。「武島、と名字が一緒だということは、かなり近い親戚と考えていいのかな。あるいは家族とか」
「彼は嘘じゃないといったよ。信じないなら、君に確かめてみろと」
「馬鹿みたい」吐き捨てるように彼女はいった。その台詞が誰に向けて発せられたものなのか、直貴にはわからなかった。
朝美は前髪に指を突っ込み、額の生え際のあたりを掻いた。
タカフミはにやにやしている。しかしその目の奥に底意地の悪い光が宿ったことや、頬が微妙にひきつったことなどを、直貴は見逃さなかった。
リビングルームは二十畳ほどもあった。ダイニングテーブルが見当たらないから、食事をする部屋は別にあるのだろう。中央に大理石の巨大なテーブルがあり、それを囲むように革張りのソファが並んでいた。直貴は勧められるまま、真ん中のソファに腰掛けた。
暗い顔をしてちゃいけないな、と直貴は鏡に向かって呟いた。長い間、特に剛志の事件があってからは辛いことばかりだったので、陰気な表情が鉄錆のように顔にこびりついている。しかしそれでは人に好感を持たれることは少ない。
直貴は何気なく例の黒髪の彼女を見た。すると向こうも彼のことを見ていたのだった。すぐに彼女は目をそらしたが宙で一瞬視線がぶつかったのは事実だった。
「そうだよ。ついにデビューだ。どういう形にしろ、祐輔だってそれは嬉しいだろ」
コータにいわれ、まあな、と寺尾も片頬だけで笑った。
喫茶店で待っていたのは根津という人物だった。まだ三十代に入ったばかりに見えた。広い肩幅と尖った顎が印象的だった。口の周りに髭を生やしている。それが黒っぽい色のスーツとよく合っていた。
直貴はハンカチで手を拭いてからリンゴを摘まんだ。口に入れるとほんの少し塩味がして、かみ砕くと甘さが広がった。おいしい、と彼は素直に感想を述べた。
アスファルトの路面に彼の短い影が落ちていた。正確な時刻はわからなかったが、たぶん午後三時頃だろうと見当をつけた。
「御苦労様。若いのにえらいわねえ」そういって小さな祝儀袋をくれた。後で見ると中には千円札が三枚入っていた。そんなにもらったのは、引っ越し屋の仕事を手伝うようになって初めてだった。
彼女の表情から何の邪念も感じられなかった。皺の一本一本にまで優しさが刻み込まれているような微笑みだった。剛志がぺこりと頭を下げると、「こら、ちゃんとお礼をいわねえか」と先輩から叱られた。