わたしには武器がある。
キーンと音が鳴りそうなほどに研ぎ澄まされた出刃包丁だ。
斜め掛けにしたショルダーバッグのなかにこっそり忍ばせて、わたしはいま見知らぬ住宅街を歩いている。「あの人」が暮らしている街を、ゆっくり、ゆっくり、歩いているのだ。
正直いえば、まさか自分がこんな刃物を使う女になろうとは、思いもよらなかった。
まったく、人生、何が起こるか分かったもんじゃない。
小さな公園沿いの道路で、赤信号につかまった。
わたしは、あらためてスマートフォンの地図をよく見た。この道を渡り、まっすぐ路地を行き、スーパーのある信号を右に折れる。そこからもう一度、細い路地を右に曲がれば、到着する。
あの人の家に。
いま、わたしが信号待ちをしている場所からは、だいたい二〇〇メートル。
もう目と鼻の先だ。
信号が青になった。わたしは再びゆっくり歩き出す。
ふと、空を見た。雲ひとつない高い秋空に、トンボが二匹ふわふわと糸くずみたいに浮かんでいる。都心のベッドタウンで見上げる青空は、どこかうっすらと灰色がかって見えた。
台所の床板はつやつやと飴色に光っていた。何十年も踏みしめられ、磨かれ続けた色合いだ。
わたしはさっそく箸を手にして「美味しそう」と言いながら料理に手を伸ばそうとしたのだけれど、おじいちゃんはピンと弓のように背筋を伸ばし、日焼けした両手を合わせて「いただきます」と言った。
自分でも思いがけないことに、胸の浅いところから潤んだ感情がこみあげてきて、わたしはテーブルの上にぽた、ぽた、としずくをふたつこぼしてしまった。
ぴょ~ろろろろ~。
蛍光ブルーの夏空から、鳶の歌が降ってきた。
わたしとおじいちゃんは、目を細めながら天をあおぐ。遥か高い上空で、鳶の小さなシルエットがゆっくりと旋回していた。
「なんか手伝おうか?」
手持ち無沙汰なわたしは、おじいちゃんの背中に問いかけた。
「この家にいるあいだは、好きにしなさい」
「え?」
「エミリは、何をしてもいいし、何もしなくてもいい」
ヤクザ映画の俳優みたいなおじいちゃんの声でそう言われると、ちょっと突き放されたような気分になるけれど、でも、どこか言葉の輪郭がまるくて、やさしい響きも感じられる。
ときどき、あくびをしながら文字を追っていたら……、いつの間にか、わたしは背中から畳に溶けるように眠りに落ちていた。
直斗さんと心平さんが帰ると、家のなかは深い湖の底みたいにひっそりとした。
「いいんですか、わたしなんかで?」
言った瞬間、自己嫌悪の泡が胸のなかで膨らみはじめた。
海は、少し傾いた陽光を吸い込んだせいか、薄めたビールみたいな色をして、ゆらゆらと光っていた。
おじいちゃんは腕組みをして、しばらく首をひねったまま固まってしまった。眉間に皺を寄せて考えてはいるけれど、でも口元も、目元もやわらかで、微笑み一歩手前、といった表情だ。きっと、いま、おじいちゃんは、おばあちゃんとの思い出のなかを旅している。
「エミリちゃん」
誰かがわたしの名前を呼んだ気がしたけれど、わたしはそれらの声を硬い背中で撥ねかえし、お店の玄関の引き戸を開けて外に出た。
それからわたしたちは、頭上で輝いていた一等星が、背後の山の端に触れそうになるまで、ひたすらどうでもいいような冗談を言い合い、笑い続けた。
八月の最終日。太陽は今日もげんこつみたいな陽光をアスファルトに叩きつけていた。