直木賞受賞作荻原浩さんの『海の見える理髪店』から学ぶ表現、描写
私は定年後に趣味と実益をかねて小説を書けるようになりたいと思っています。
今でも、とりあえず書いているのですが、なかなか難しい。
短編を書くのがやっとで、その出来上がった小説を読み返してみると、なんとひどいことか。
自分の表現力や描写の稚拙さに情けなくなり挫折しそうになります。
そこで、小説家の方々の素晴らしい表現、描写をここに残して、身につけていこうと思っています。
私と同じように小説家の表現、描写に興味のある方はご覧下さい。
浮かし模様のある白い壁紙はアイロンをあてる前の洗い立てのシーツのようで、よく磨かれたダークブラウンの床はスケートリンクにだって使えそうだ。
きちんと揃えられた薬剤の容器が、完璧主義の演出家に立ち位置を決められた舞台役者に見えた。
店主は客用の椅子の脇に付属品のように立っていた。
ありがたい、口ではそう言っても、本当は迷惑がっているふうに見えた。鏡に映る店主の顔には、ほかの表情が想像できない完璧な微笑みが浮かんでいるのだが、唇の両側に深く刻まれている笑い皺が、目尻にはなかった。
蒸しタオルからはかすかにトニックの香りがした。この匂いも懐かしい。大人の匂いだ。子供の頃
床屋へ行くたびに、自分の知らない世界の手がかりのように嗅いだ、大人の男の匂い。
何を言われるかと緊張したが、皺のひとつみたいな薄い唇から出たのは、僕の新しい髪型に関するいくつかの選択肢と提案だけだった。
鏡の中の時計は左右があべこべで、午後四時のはずの短針が、八時の方向を指している。傾いた陽が藍色の海に金の粒をまき散らしはじめた。
秋田の実家に帰ったきりの女房からは、しばらくして離婚届が送られてきました。子どももいませんでしたし、ためらいなく判を押しました。十何年いっしょに暮らしていても、私とあれは、鏡の向こうとこちらにいただけだったんですね、きっと。手を伸ばしあっても、じつは逆の手だから握手もできない。
それから店主はこう言った。頭の後ろの縫い傷は、お小さい頃のものでしょう。
鏡の中の店主を見返した。逆光を浴びた顔は黒い影になって、表情がはっきりとわからなかった。
お母さまはご健在ですか、店主が聞いてきたから、ええ、と答える。
店主は黙りこみ、ドライヤーの音だけになった沈黙を破って、僕は声をあげた。
ありがとうございます。つけ足そうと思った、あとの言葉は、結局、喉の奥にしまいこんだ。
僕は、古いアルバムを閉じるようにドアに手をかける。
駅を降りた先の空は嘘っぱちみたいに青くて、ロータリーの円形花壇のむこうには取ってつけたような入道雲まで浮かんでいた。
アスファルトに降りそそぐ陽射しはまるで黄金色の針だ。私は日傘を差して歩き始める。
もともと細面なほうではあったけれど、その顔からは昔の丸みが消え、頭蓋骨が透けるほど痩せていた。そしてやけに白い。
ひと口すすって、母親が小さく声をあげた。
「あ」
壁にもたれてアイスピーチティを飲んでいた私の背筋はスチール定規のように伸びてしまう。今さら何を怯えることがあるだろう。もう私はここにいた頃の小娘とは大違いの人間になっていて、相手は車椅子のお婆さんなのに。
「何か入れた?」
母親の猛禽類の目が私にむけられた。
ふいに祥子は、自分が何か忘れ物している気分になった。頭の隅に画鋲が刺さっているのだけれど、その画鋲で留めたメモの内容が思い出せない。
アスファルトがいまにも溶けそうな夏の道を、茜はリュックのベルトを握りしめて歩いている。ちょっと前かがみで。日焼けした足を鳩みたいに忙しげに動かして。
道の先には綿あめのかたちの雲が立ちはだかっている。
おかしいな。眉のあいだにしわをつくって首をかしげた。首を戻した瞬間、頭の中の記憶の玉がころころところがって、ビンゴの穴にすっぽりはまるみたいに、澄香ちゃんの言葉の続きを思い出した。
もう空に綿あめはない。雑巾みたいな雲が倍速再生の速さで空の青を拭きとっていく。
「おやまぁ、かわいらしいお地蔵さんだこと」タイヤの空気もれみたいな声でそう言い、茜たちに笑いかけてきた。
どれもが売り物の時計の定石どおり十時九分あたりで針が止められている。時計という時計がいっせいに、私の来訪に眉を吊り上げているように見えた。
スローモーションフィルムのようにのんびりと手を動かす。
あの時のサイレンの音も、私の耳に、消えない瘡蓋(かさぶた)となって張りついたままだ。