私は定年後の趣味と実益にと、小説を書くことに挑戦しています。
しかし、出来上がった自分の小説を読み返してみると、自分の表現力や描写の稚拙さに情けなくなり挫折しそうになります。
小説家の方々の素晴らしい表現、描写をここに残して、身につけていこうと思っています。
私と同じように小説家の表現、描写に興味のある方はご覧下さい。
受話器を取り上げると、真空管の中でしゃべっているように小さな声が聞こえてきた。こちらの耳がどうかしてしまったのかと思うほどだ。
「推理小説の題材? ほう」
石倉は、値踏みするような視線を露骨に向けてきた。
「ダンボールも開けちゃっていいんですね?」
「結構です。本当にすみませんでした」
わかりました、といってあたしは電話を切り、部屋の隅に置いたままの二つのダンボール箱を見た。箱は仲の良い双子のように、きちんと並んで座っていた。
「新里さんについてですか?」
田村氏はコーヒーを口に運ぶ手を止めて、愛嬌のある目をさらに丸くした。
「もしかしたら」
あたしは唇を舐めた。「ヤマモリ・スポーツプラザ?」
すると田村氏は奥歯から小骨が取れたような顔をして頷いた。
「そうそう。たしかそんな名前でした」
「なるほどね」
あたしは冬子と目を合わせた。
「フリーライターです。でも最近死にました。やはり殺されたんです」
ペンを走らす田宮刑事の手がぴたりと止まった。そして欠伸をするみたいに口を大きく開いた。
「あの事件の?」
「ええ」と頷く。
「泳ぎが苦手? そういったんですか?」
あたしは驚いて訊き直した。
「いや……」
あたしの声があまりに大きかったせいか、彼は黒目を不安定に動かした。
「思い違いかもしれない。そういっていたような気がするだけです」
彼女が息を飲むのがわかった。頬が少しずつ紅潮していく。そのうちに耳たぶまでが真っ赤になった。
リビング・ルームに吊るしてある風鈴の音だ。
なんだ風だったのか、とあたしは思った。そしてまた瞼を閉じかけたが、すぐに大きく見開いた。同時に、心臓も一度大きくバウンドした。
戸締まりの状態から考えて、風が入ってくる余地などないはずだったのだ。
誰かいる……?
恐怖があたしの心を支配した。枕を握る手に力が入り、腋の下に汗が湧いた。鼓動は跳ねたままだ。
あたしの胸騒ぎはおさまらなかった。神経質になり過ぎているのだろうかと思ったが、そんな言葉では解決できない何かがあたしの胸の中に澱のようによどんでいた。
またあたしの中にもやもやしたものが蘇ってきた。鼓動も少しずつ早くなっているようだった。あたしはあたしの不安な気持ちを持てあましたまま、ゆっくりと仕事台に近づいていった。
だがワープロのブラウン管に出された文字を見た瞬間、あたしの足は動かなくなった。
手を引かねば殺す
あたしは窓のカーテンを開けた。部屋の中とは対照的に屋外は意外なほど明るかった。コンパスで描いたような月が雲の間にぽっかりと浮かんでいる。
山森氏がドアを開けてくれたので、あたしはもう一度夫人に会釈しながら入った。彼女の視線があたしの背中に向けられている気配がする。まるで刺すような視線だと思った。
「単なる海難事故です。それ以上でもそれ以下でもない」
あたしはこれには答えず、「お願いがあります」と努めて無感情な声を出した。
「お嬢さんにお会いしたいんです」
「由美に?」
彼は片方の眉を上げた。
「娘に何の御用ですか?」
あたしは送話口を手でふさいで冬子に受話器を渡した。
「はい、萩尾ですけど」
冬子はやや固い声で応対した。
「なかなか面白い男でしたよ、相馬幸彦は」
額に流れる汗を拭きながら久保はいった。腹にかなりの脂肪がついているだけに、いかにも暑そうに見える。
「でも売れなかったんですね」
「そう。こっちの方の才能はもう一つだった」
久保はペンを動かす真似をした。
不安が胃を押し上げるような感じがした。鼓動が早くなり、何度も吐き気を催した。
「だからって、あたしたちの中に殺人犯がいるみたいにいわれるのは心外だわ」
山森夫人がヒステリックにいった。赤い口紅を塗った唇が、生き物みたいによく動く。
「その予行演習というわけか」
石倉は下唇を突き出し、肩をすくめて見せた。
あたしがいいきると、刑事は頭を掻き、唇を変な形に曲げた。苦笑しかけたが、あたしの手前なんとかこらえたといった感じだった。
「それで結局、あなたは竹本さんの条件を飲むことにしたのね?」
彼女は頷く代わりに、そっと瞼を閉じた。
「その時のあたしは、とにかく彼を助けてもらうことが先決だったんです」