「あの子は……おれの、大切な人です」
つぼみの瞳が、風に触れた湖面のように揺らめいた。人生は、もう一言、つけ足した。
「おれの、大切な家族です」
つぼみは、止めていた息を放った。その途端、涙の粒が頬を滑り落ちた。
「ねえ、誰なの?」
ばあちゃんは、もう一度尋ねた。人生は、つぼみを振り返った。ほっぺたをハムスターのように膨らませて、すっかり不機嫌になっている。
九月の初め。蓼科の空には、すでに秋の気配が漂っている。
暑かった夏の熱気を洗い流すように、青一色の中空をうろこ雲が横切っていく。その空を背景に、八ヶ岳の峰々が青くかすんでそびえ立っている。
その様子を見守っていた人生は、ほんの一瞬、ぐっと息を詰めた。それから、胸に抱いていた小鳥を放つように、思い切って言った。
「……おれが、いるだろ」
田端さんは、夕日に稜線を際立たせる八ヶ岳の峰を庭から眺めて、「こりゃあ、絶景だな」とため息をついた。
「ばあちゃん、ただいま」
きっちりと閉められた襖の向こう側に向かって、人生は声をかけた。
部屋の中はしんと静まり返って、返事がない。電気もついていないようだ。
……まさか。
人生の胸の中で、ごとんと大きな石が動いたように心臓が鳴った。とてつもなく悪い予感が、体の中心を稲妻のように駆け抜けた。
人生の隣で、ぐすっとはなをすする音がした。そっと横を向くと、両膝を抱え、その上にあごを載せて、つぼみがばあちゃんをみつめている。手の甲でしきりに目をこすっている。その様子は、物語に聴き入る無垢な少女そのものだった。
自分の中にも湿ったものがこみ上げてきて、不覚にも目頭が熱くなった。
八ヶ岳の雄大な風景を仰ぎ見るかのように、人生は茜色の空を仰いだ。
真っ白い雪原の彼方に、悠々と横たわる八ヶ岳の峰。その斜面をオレンジ色に輝かせて、太陽がゆっくりと傾いていく。
「……行っちゃうのね」
耳もとを通り過ぎる風のような、ささやかな声がした。人生は、もう一度、ばあちゃんを見た。ばあちゃんの目には、いっぱいに涙が浮かんでいた。それを振り切るようにして、人生は玄関へと急いだ。
急な勾配の峠の道は、うっすらと雪が積もり、午後の日差しに輝いていた。それがいま、林の木々の影が薄青く伸びて、寒々しい道に見える。行きと帰りで、こんなに風景が違って見えるなんて。
人生の目の前に現れたもの。それは、静まり返った小さな湖だった。
冬の日差しを照り返し、近くの小高い山の姿を逆さまに映して、静かに広がる湖面。清潔な青空が、そのまま大地に下りてきたかのようだ。ときおり吹き過ぎる風に揺れる木立、かすかにざわめくさざ波。動くものといえば、そればかりだった。
ありがとね。聞いてくれて。
その言葉に、胸のずっと奥で、ふっとあたたかい灯火が揺れるような感触を覚えた。
つややかな黒髪のおかっぱ頭と、ふっくらとしたリンゴのように赤い頬。化粧っ気のない顔。どう見ても高校生以下にしか見えない。
茅葺き屋根の背景には、真っ青な冬の空が広がっている。その中に、八ヶ岳連峰がくっきりと浮かび上がっていた。雪を被った峰々はかたち良く尖り、朝日を弾いて中空に居並んでいる。堂々として立つ雄大な姿に心を奪われて、人生は立ち尽くした。
つややかな黒髪のおかっぱ頭の少女は、昨夜一見したときには、中学生くらいの印象だった。けれどいま、こうして見ると、高校生くらいに見える。
伏せたまぶたのまつげがびっくりするほど長い。ふっくらした頬はうっすらと桃色だ。
ぎし、ぎしと足音が近づいて、ちんまりとした体が現れた。少し前屈みの姿勢、きちんと結い上げた銀色の髪。奥目をしょぼしょぼとさせて、温和な顔が人生のほうを向いた。
今度こそ、間違いなく、マーサばあちゃんだった。
おかっぱ頭の……若い娘。
人生は、ぽかんとして彼女の顔をみつめた。赤い丹前を着たおかっぱ娘は、真一文字に口を結んで、人生を見据えている。森の中で見知らぬ獣に出会った子鹿のように、黒い瞳が震えている。人生は、何か言おうとして口を半開きにしたまま、なかなか言葉が出てこない。
道路脇には除雪された雪がこんもりと積み上がっている。ぜいぜいと荒い呼吸をするように、軽自動車はエンジン音を唸らせて山道を登っていった。
ふたりを乗せた軽自動車は、真っ暗な山道に入っていった。
車が進む道沿いには街灯もない。ヘッドライトが目の前の闇を切り裂くようにして進む。すれ違う車もなければ、通行人などいるはずもない。
割り箸を割って、熱々の麺をすくい上げる。息を吹きかけて、勢いよくすする。
……うまい。
そばは、胃の腑へするすると落ちていった。かつおだしのつゆを飲む。これも、沁みるほどうまかった。つゆを吸った油揚げはほんのり甘く、口の中いっぱいにうまみが広がる。最後の一滴までつゆを飲み干すと、どんぶりをテーブルに戻して、「ああ、うまかったあ」と思わず声を放った。
あの頃、母の手製のおにぎりは、この世でいちばんおいしい食べ物だった。
梅干しの酸味を中和する、海苔の香ばしさとご飯の甘み。まん丸いおにぎりは、母のあたたかな手のひらの味わいそのものだった。
もうすぐ会える。ばあちゃんに会える。
あの頃、確かに、人生少年の心には羽根が生えていた。
あのとき生えていた、一対の羽根。いつのまにか、なくしてしまった。
知らず知らず膨らんでいた期待が、あっというまに萎んでいく。
たった十枚の、ごく形式的な年賀状。それが、母が息子に残すことのできた唯一の宝物だったとは。
心臓が、どくんと震えるのを感じた。その封筒は、どこからどう見ても、由緒正しい「遺書」にしか見えなかった。
狭い台所には食器棚と冷蔵庫、カップ麺やスナック菓子が詰めこまれた段ボールが積み上げられ、人ひとりが立っているのがやっと、というようなありさまだ。その台所を中心に、奥には母が寝起きする六畳間、右手には人生がろう城する四畳半、左手には申し訳程度の洗面所と風呂とトイレがある。築年数不明のぼろアパートの一室だ。
積み上げられたDVDケース、空になったカップ麺の容器、スナック菓子の空き袋、丸めたティッシュ、脱ぎっぱなしの靴下、この世の中でもっとも無価値で役に立たないものの累積の中に、敷きっぱなしの布団。