坂木司さんのワーキング・ホリデーの表現、描写
聞きたいことは山ほどある。話したいことだっててんこ盛りだ。けど、俺は心の筋肉で無理やり口をつぐんだ。
「ケンカでもしたの?」
さらりとコブちゃんがたずねる。
「まあ、そんなとこです」
俺が答えると、それ以上突っ込むことなくうなずいた。俺はコーラの炭酸にちりりと舌を灼かれながら、再び頭を下げる。
「ご迷惑、おかけしました」
そう考え出したとたん、世界が夜の闇に向かって剥がれ落ちてゆくような気がした。もしあいつに何かあったら。取り返しのつかないことになったら。
「あーくそ、なんかもやもやするな」
喜怒哀楽の全部がごちゃ混ぜになったような感情。それが十倍くらいに薄められて漂っているような気がする。
しかしそんな気分の俺に、進は店から出るなりこんな言葉を投げつけた。
「バカ」
「ヤマト」
「な、なんだよ」
「ひとつ言っておきたいことがあるの」
飲み過ぎて酔いが一回りしちまったような目線は、据わりまくってやけに凄みがある。俺はがらにもなく気圧されて、飲もうとした水をそのまま元の位置に戻した。
ナナが席から立ち上がって両手をぶん回していた。臍の見える丈のキャミソールに、すけすけのブラウス。スカートは超ミニで、足には銀色に光るラメのサンダル。住宅街のファミレスには不似合いな、夜まっしぐらの装いだ。
昼飯の弁当は、つくね丼だった。進が由希子から教えられたという鶏つくねハンバーグのアレンジ版で、甘辛のタレと焼きピーマンを添えてあるのが大人用だそうだ。
「ちなみに子供用には、ミックスベジタブルが入っているらしいですよ」
俺の代理で弁当を受け取ったコブちゃんは、蓋を開けて嬉しそうに目を細める。
足もとに落ちる黒い影。俺は首筋に熱を感じながら、次の配達先に向かった。
俺はもしかすると、あいつに悪いことをしちまったかな。叱ったことに後悔はないけれど、心のどこかがそんなことをつぶやいている。
俺がスーパーカップのとんこつラーメンやうまい棒を食うたびに、由希子は呆れた顔で野菜ジュースを差し出した。
(ほら、これ飲んでせめてバランスとりなさいよ)
不意に頭の中で、由希子の声が立体的に響いた。なんだよ。まるで昨日別れたみたいに出てくんなよ。
(悪かったわね)
頭の中で由希子がべえっと舌を出す。
「あのなあ、お前に何がわかるっていうんだよ」
怒りの炎がゆらりと立ちのぼる。なんなんだよ一体。
「はよっす」
「今日も暑いねえ」
まんじゅうのような笑顔をふりまきながら着替えているこいつの名前は林。制服のストライプがおかしな曲線を描いているのは、太っているからだ。あだ名は「コブちゃん」。
事務所のデスクに腰をかがめていた人物が、ふっと腰を上げた。ごつい。ていうか顔はゴリラそのもの。しかも宅配の荷物で鍛えられた上半身は逆三角形で、腕なんざ丸太ほどもある。
(殴られたら死ぬよな、確実に)
俺はそいつのフランクフルトみたいな指を見つめてため息をついた。このさよなら人類みたいなおっさんは鬼頭、この支店のボスだ。
俺たちは二人で茜色の街に出た。夏の宵は風呂上がりのぬるさで肌にまとわりつく。
階段を上がって店を出ると、夏特有のむっとする空気が肺になだれ込む。
俺たちのテーブルに店のオーナーがやってきた。畜生。誰がちくったんだか。毛足の長い絨毯をごついヒールで踏みつぶしながら、オーナーは俺たちのテーブルを見おろす。
「ちょっと。ヤマトの子が来てるって聞いたんだけど」
言いながら濃いつけ睫をばさりと揺らして、パンツスーツの腰に手を当てる。そう。オーナーことジャスミンはおかまのおっさんなのだ。
由希子という名前を聞いて黙り込んだ俺を、進はじっと見ている。男のくせに細くて困ったような眉は、言われてみれば確かに彼女に似ていた。俺はよく、あの眉をからかっては由希子に怒られたっけ。