小説から学ぶ表現、描写 朝井リョウさんのもういちど生まれるより
椿と飲んだことがそんなにも嬉しかったのか、と思うと、胸の奥の裏側から何かがどろりと溶け出してきそうな気持ちになる。
今回の振付けを初めて見たとき、背中の毛穴が開いて、悪い予感がたっぷりと溶け込んだ汗が滲み出てきた。ショーというよりはフリーで踊るタイプのロックダンスを好んでやってきた私にとって、ジャズのショーはなじみのない動きが多すぎて、似合わない、と直感した。
自信がつくって、椿、それ以上自信をつけてどうするのよ。
小さく小さく、声を出していたかもしれない。全身を巡る濁った気持ちが、血管からどろどろと滲み出てくる。どんどん部屋が広くなっているように感じる。テーブルが小刻みに揺れて私は我に返った。
「あ、そういえば」
静かになってしまった空気をぺろりとめくるような声を出して、先生は脇に抱えていたファイルの中をがさごそとあさり始めた。
「はい、これ」
「先生」
「ん?」
「愛妻弁当おいしかったですか?」
先生はもう一度、ん? という表情をしたけれど、花が咲くようにすぐに頬をゆるませた。先生の照れた顔は、こちらにも伝染しそうなくらい純粋だ。
口の中で水分を失ってぱさぱさと崩れたアジを、じっくりと咀嚼する。
家に帰ると、父はまだ帰ってきておらず、母もお風呂に入ってるため、リビングには誰もいなかった。
ただいま、という私の声だけが、ころころと誰の足音もしない床に転がる。テーブルの上には今日もちょっとした夜食が用意されている。
「すいません、画のモデルになってくれませんか?」
誰かと待ち合わせしていたのであろう女の子は、俺の声に顔をあげた。
この気持ちは何だろう。わからない。わからないから、描きたい。
夏祭りのビー玉のような瞳の中に、俺がそのままきれいに映っている。
自分が向き合いたいと思ったものを描け、と、子供がさっきまで乗っていたぶらんこのように、ゆらゆらと小さく揺れるいつもの声でそう言っていた。
発言を被せられたハルは、ゲリラ豪雨のような勢いでため息をついて、「それが言いたかったんだねーえ」と幼子をあやすみたいに言った。
「ハルーねぇねぇハルハルー」
話しかけても、ハルは携帯を見つめたまま顔をあげてくれない。ブラックコーヒーの苦みがそのままこびり付いたような眉間のしわだけが、オレを見ている。チビだし茶髪だし軽そーにしゃべるし、ハルはオレのことを嫌いなのかもしれないな、ちょっとショック。
音符がそのまま音になったような声が、ゆっくりと聞こえてきた。ひーちゃんの顔は見えない。
ひーちゃんは急に、あたしの背中をそっと撫でるように言葉を放つ。そういう時は必ず、やさしさが膜を張ったような瞳をしてあたしのことを見ている。あたしはそんな時いつも、ひーちゃんの背景が見えなくなって困る。
「この鮭、あぶらたっぷりすぎない? 揚げてるみたいになってきたけど」
大丈夫なのコレ、なんて言いながらひーちゃんも楽しそうだ。魚から出るあぶらは肉のそれと違ってやさしいにおいをしている。たきたてのごはんのにおいと混ざって、それだけでもう十分おいしそうだ。じうじうパチパチが加わると、口の端からじんわりと唾液が生まれてくる。
「教室の入口に集まってるの、邪魔だよ」
ひーちゃんは青く澄んだ声を放ち、背筋をぴしゃりと伸ばしたままあたしの方に歩いてきた。あたしは心の中でその姿に拍手を贈っていた。
ぴったり揃った前髪と、宝石みたいに光る長い黒髪と、アイラインもいらない猫のような強い瞳は、どう考えても誰よりもきれいだった。
栗色の巻き髪がなんとなく女子のリーダーっぽい位置で「クラスのメーリス作ろー!」と言い出したのを右目で確認して、あたしはペットボトルのキャップをひねる。女子のリーダーやりたがるやつって、どう考えても、むり。大学生になってまで、そういうことしたがる気持ちが全然わからない。
ラムネのビー玉みたいなくりっくりの目してさ、無理した茶髪みたいなのがマジ童貞
不意に、部屋の空気をかき混ぜるようにトイレのドアが開いて、誰かが出てきた。たぶん、こっちがひーちゃんだ。空気の波がふわりとあたしの上を撫でていく。