原田マハさんの翔ぶ少女の書き出し
ええにおいや。あまくて、やさしい、やわらかぁなにおいや。
バターと、クリーム。おさとうに、バニラ。あまい、あまい、きゅうーっとなるほどあまぁい、すごーく、ええにおい。
これは、あたしのだいすきな、チョココルネのにおい。チョコレートのあまにがいんと、ふんわりやけるパンのキツネいろ。ふわふわ、ふんあっ。ああ、はなが、くすぐったい。
じゅうじゅう、おとがしとぉよ。やきそばを、やくおとや。ふうーっと、ながれてくるんは、ソースと、あおのりのにおい。できあがったやきそばは、やきそばパンのなかみになるねん。
ぱちぱち、あぶらのはねるおと。こんどはコロッケをあげとぉねん。コロッケパンの中に、入れるねん。レタスのはっぱと、きゅうりのうすぎりと、さくさく、さくっと、ぜんぶいっしょに。
おはようさん。きょうも、ええおてんきやねえ。
あさいちばんで、パンをかいにくるんは、とつかのおばちゃん。おばちゃんとこのあみちゃんは、あたしのいちばんのおともだちやねん。
おはようさん。ほんまに、ええおてんきやねえ。
げんきいっぱいに、おみせで、おばちゃんとはなしとぉんは、あたしの、おかあちゃん。あみちゃんがだいすきなやきそばパンと、しょくパンを、ふくろにつめとぉ。
あみちゃん、もう、おきとぉの? ほんまに、ええ子やなあ、はやおきで。うちの子らは、あかんわ。みぃんな、ねぼすけや。
なんぼ、はやおきかて、あかんわ。あみは、しゅくだいもやらんと、あそんでばっかりやから。かんじかくんも、にがてやねん。あんたとこの、三きょうだいは、イッキくんも、ニケちゃんも、えらいべんきょうでけて、じまんやろ。
あかん、あかん。イッキは、たいいくばっかりすきで。ニケは、さんすうがにがてで……たしざんひきざんも、ようせんと、二ねんせいになれるんかいな。サンクも……いやいや、あの子はまだみっつやし、わからんけとな。
あはは、ははは。
わらっとぉ。おかあちゃん、おばちゃん、わらっとぉ。おみせの中で、パンつくとぉおとうちゃんも、きっと、わらっとぉ。
イッキにいちゃんも、サンクも。
みんな、みぃんな、わらっとぉ。
あまくて、やさしい、ええにおいん中で。
枕もとの目覚まし時計の針が五時四十五分を指していた。
丹華(にけ)は、そのとき、夢を見ていた。自宅の二階の、子供部屋で。
家の一階にある店、「パンの阿藤」の店先で、母と、近所の戸塚のおばちゃんが、楽しそうに会話している。それを、どこから眺めているのだろう、空にふわっと浮いたようにして、上のほうから見ているのだ。
母も、おばちゃんも、いつも通りにたわいもない話をして、あはは、はははと笑っている。
やがて、店の奥から、調理パンがいっぱい載った銀色のアルミトレーを掲げた父が出てくる。おはようさん、とあいさつして、やっぱり、笑っている。
兄の逸騎(いつき)が、そのあとに続く。チョココルネ一個ほしいねん、なあええやろ、お父ちゃん。兄のあとから、妹の燦空(さんく)も、ちょこちょこと走りながらやってくる。サンクも、サンクも。ねえお父ちゃん、お母ちゃん。サンクもチョココルネ、ちょうたい。
小鳥のように、宙を舞って、丹華は、みんなの様子を眺めている。
幸せな朝の風景。
そんな夢を見るのは、階下から、店の厨房で両親がパンを焼く香ばしいにおいが上がってくるからなのだ。
父と母は、毎朝、四時半に起きて仕込みを始める。五時半には、パンを焼き始める。調理パンに使うやきそばをいため、コロッケを揚げる。
兄の逸騎と、丹華と、妹の燦空。二階の子供部屋で、すやすや眠る三きょうだいを、甘くてしょっぱい、いいにおいが包み込む。
明け方に見る、おいしくてやさしい夢。その夢の中で、丹華は、悠々と空中に浮かんでいた。翼が生えているかのように。
あたしも一緒に、と、夢の中で、眼下に見えるみんなに向かって、丹華は声をかける。
あたしも、みんなと一緒に、パン食べたいねん。
お父ちゃん、お母ちゃん。ええやろ? 兄ちゃん、あたしにも、チョココルネ、一個ちょうたい。
なあ、戸塚のおばちゃん。亜美ちゃんも呼んでええ? みんなで一緒に、朝ご飯、食べよ。
あたし、そこに行ってもええ? なんか、あたしだけ飛んでるの、ヘンやし。
それとも、みんなも、飛んでみる?
うん、そのほうが、ええかも。
大丈夫、飛べるって。こうしてな、うーんと、上に、空に、うーんと、力いっぱい、飛び上がるねん。
やってみて、お父ちゃん、お母ちゃん。
兄ちゃん。サンクもや。
こうしてな、こうして……ほうら。
翔ぶ……
どーーーーーーーーん
その瞬間丹華の小さな体が、宙を舞った。
ドドドドドッ、轟音が響き渡る。ガガガガガッダダダダダダッ、ものすごい地響きとともに、周辺にあるものが、全部、丹華に向かってなだれ落ちてきた。
きゃああああああーーーーーーっ。