人生も後半戦! これから先も楽しもう!

人生も後半戦になったら、これまでの生き方に後悔することもあります。しかし、後悔しても仕方ない。この先楽しく生きるためにいろんなことに挑戦

東野圭吾さんのパラレルワールド・ラブストーリーの表現、描写

 

 

 智彦は暗い目をしていた。一瞬唇が、まるで笑みでも浮かべるように曲がった。皮肉な笑いか、それとも自嘲したのか。その表情のまま、ふらりと立ち上がった。そして歩きだす。

 

 

 麻由子は立ち尽くし、ハンドバッグの紐を強く握りしめた。瞳が潤み、そして揺れていた。

 

 

「彼女を……抱いたのか」聞き取りにくい声で智彦は尋ねてきた。

 少しためらったが、俺は答えた。「ああ」

 奥歯を噛みしめているのだろう、智彦の顎の肉がぴくぴくと動いた。

 

 

 智彦が、何かに気づいたように目を見開いた。瞬きを繰り返し、右手の拳を胸の位置まで持ち上げた。その拳はぶるぶると震えていた。

 

 

 智彦はゆっくりと首を振った。よろけるように後退りし、机に手をついた。

 

 

 智彦の喉仏が動いた。次に彼は唇を開いた。

「どういうことなんだ、それは」かすれた声で訊いた。

 

 

 何かの映像が、脳裏のスクリーンに映し出されようとしていた。しかしなかなかはっきりしてこない。深い霧のようなものが、映像を遮っている。

 突然、その霧がふっと途切れた。隙間から、鮮明な絵が出現した。

 

 

 まるで静電気にうたれたように、俺の体内をぴりぴりとした刺激が走った。全身が硬直し、熱くなっていく。

 

 

 麻由子は柵を背にして立っていた。薄いブルーの半袖のジャケットを着ている。同じ色のキュロットから、細い足が伸びていた。

 

 

 考えてみれば麻由子の手を握るのは初めてだった。細くて柔らかい、意外に骨格のしっかりした手だった。俺の掌は汗ばんでいた。

 不意にこのまま彼女を引き寄せたい衝動に駆られ、指に力を込めた。するとまるで俺の内心を見抜いたように、麻由子はアーモンド形の目を見張った。「だめよ」小さな声で、子供をたしなめるようにいった。

 

 

 俺は驚いて彼女の目を見た。切れ長の目から先程までの笑みは消え、代わりに意志の強さを示す光が宿っていた。

 

 

「どういうことなんだ?」

 すると智彦は迷ったように目をそらした後、眼鏡を人差し指で押し上げていった。「人事課長は何もいわなかったのかな?」

 

 

 「ふつうは五年から十年というところだよ」隣の青地が金属的な声で補足した。

 

 

 四つ並んだドアの一番端が、篠崎の部屋の入り口だった。崇史が中に入ると、埃と黴(かび)の臭いがした。かすかにカレーの匂いも混じっている。壁にしみついているのだろう。

 雅美が蛍光灯のスイッチを入れた。六畳の和室が目の前に現れた。壁際にはカラーボックスが二つと、小さな整理ダンスが一つ。カラーボックスの上にはCDラジカセが置いてある。窓のそばに十四型のテレビ。その横には古い雑誌が積み上げられていた。一番上の雑誌のページがめくれ、女性アイドルの水着姿が見えていた。

 

 

 アパートはその壁面のひび割れや変色具合から、築二十年は経っていると思われた。外階段の手摺りも、皮膚病のように塗装が剥げて錆び付いている。崇史は雅美の後に続いて、その階段を上がった。

 

 

 直井雅美は、ピンクのポロシャツにジーンズという格好で喫茶店に現れた。長い髪はポニーテールにしている。そしてスポーツ選手が持つような大きなバッグを肩から提げていた。

 

 

 特許ライセンス部の酒井という部長は、白髪混じりの髪をポマードでぴしりと決め、紺色のスーツを着ていた。スーツのズボンには、定規で引いたように真っすぐな折り目がついていた。

 

 

「将来性、発展性、実現性、その他もろもろの面から見て、そう判断したんだ。これにはもう変更はない。決定したことだ」真っ直ぐに崇史の目を見つめながら、大沼は声優のように明瞭な口調でいった。有無を言わせない迫力も、その声は備えていた。

 

 

 重い身体を引きずるようにして崇史は会社に出た。頭の芯に鉛を埋めこまれていて、それが周期的に痛みを発している。そんな気分だった。

 

 

 自動販売機から紙コップを取り出す時、すぐそばにジーンズの足があることに気づいた。ゆっくりと目線を上げていくと麻由子が笑っていた。やや固さの感じられる、複雑な微笑みだった。

 

 

 実験が一段落したので俺は自動販売機のアイスコーヒーでも飲むことにした。自動販売機が紙コップを吐き出し、そこへ砕いた氷を落とし、濃縮したコーヒーと水を適量ずつ注ぐ間、俺は窓から外を眺めた。

 

 

 夕方MACを出た後、俺は付近を徘徊した。空はどんよりと雲っていて、重たく、湿っぽい空気が身体にのしかかってくるようだった。

 

 

 照れたように雅美も唇の間から歯を覗かせた。

 

 

 「ふうむ」崇史は雅美から目を外し、遠くに視線を漂わせた。

 

 

「じゃあ彼を気の毒だとは思ってないかい?」

 「それは……」麻由子の瞳が不安定に揺れた。かすかな動揺を俺は感じとった。

「思ってるだろ?」

 

 

 「それは違うと思う」アーモンド型の目に、真剣な光が宿っていた。

 

 

「実家は新潟だっけ」

「そうよ。それもすごい田舎」鼻の上に皺を寄せて笑う。「あまりいいふらさないでね」

 

 

「研究室には馴れた?」考えた末、当たり障りのない質問をした。

 「ええ、だいぶ」顔を上げ、目を三日月形に細めた。「忙しくて、無我夢中ですけど」

 心の暗い部分を全く感じさせない、純粋な笑顔だった。

 

 

 しかし彼女はすぐに微笑み、「よろしく」といった。高すぎることも低すぎることもない、耳に馴染みやすい声だった。

 

 

 俺がいうと智彦は、こめかみのあたりを人差し指でちょいちょいと掻き、はにかむように歯を見せた。

 

 

「親友だよ」

 俺がいうと、夏江はマンガの梟(ふくろう)みたいに目を丸くした。骨董品のような台詞を聞かされたと思っているのだろう。

 

 

 そうして外の景色を眺める。雑然としたビルの群れ、くすんだ空、品のない看板。

 が、それらの風景も、並行して走っている京浜東北線の車両に阻まれることが多かった。