しかしそれは、まるで目醒めの床の夢のように、思いたどるそばから遠ざかって行くのだった。
意味もわからぬまま、岡村の象のような目が見る間に潤んだ。
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母に揺り起こされたとたん、真次はひどい胸苦しさを感じて洗面所に駆けこんだ。獣のように吠えながら、唾液ばかりを吐いた。
少年の顔は崩れるように歪んだ。前歯で唇を噛みしめると、悲しいえくぼが頬にうがたれた。
みち子は眉を開いて微笑んだ。
「嘘をつくなよ。望んでいないはずはない」
一瞬、気色ばんだあとで、みち子の瞳はしおたれるように悲しくなった。
「望んではいけないのよ」
あの人はあどけない、殻の割れるような笑顔を私たちに向けたんです。
たちまち微笑が吹き消えたと見る間に口元が歪み、下瞼に涙がうかんだ。
かげろうの翅(はね)を透かし見たような、不確かな夕闇の中を、人々は家路についていた。
お時は扇のような睫(まつげ)をしばたたかせて真次を見上げた。
コールドクリームで瞼を拭うと、別人のようなみち子の童顔が現れた。一重瞼の人形のような顔立ちが、真次は好きだった。
泥川の土手道には、緩い正確な弧を描いて街灯が並んでいた。川面からは霧が湧いており、光がぼんぼりのように淡い。
「ああ。若い者はそうしたまえ。決して回り道ではない。そう考えてはならんよ」
のっぺいは言いながら、骨と筋ばかりの掌を真次に向けて差し出した。
兄のことを懐かしみ語り合う相手は、自分しかいないのだ。母がこんがらがった記憶の糸玉を抱えて、自分の帰りを待ちわびているような気がした。
いったい何を言おうとしたのか、黙って息子たちを睨みつけた父の、猛禽類のような目を真次は忘れない。それは冷ややかな、悲しみなどかけらもない、獣の目だった。
こつこつ入歯を鳴らして、のっぺいは笑った。
「一日歩き詰めても、荷物は軽くならんか。不景気なんだねえ」
地下鉄がやってくる気配はなく、丸い闇からは無機質の造りものめいた風が、ゆったりと流れこんでいた。
のっぺいはステッキを顎に載せたまま、答えるかわりに皺を深めて笑った。
前歯の欠け落ちて空洞に見える口を開けて、老人は笑った。
重そうな古外套の背を屈め、ステッキにすがるようにして、のっぺいはベンチに腰を下ろした。背負ってきた冬の匂いが、ひんやりと真次の頬に伝わった。
「君は、二次会には行かないのかね」
乾いた、土鈴を振るような声で野平老人は訊ねた。
ふいに人の気配を感じて頭をもたげると、厚いマフラーで顔の半分をくるんだ老人が立っていた。
「ああ、野平先生ーー」
マフラーを引き下げると、老人は真っ白な口髭を横に引いて微笑んだ。
「君は、二次会には行かないのかね」
乾いた、土鈴を振るような声で野平老人は訊ねた。