「わかりません」
途端、添田が顔を上げ、それまでには見られなかった意志を持った視線が私を見た。背筋が伸びる。
彼女の好みのど真中とはずれるのかもしれないが、攻撃性の感じられない優しい顔のイケメンは、政美とよく似合っていた。
「来てくれてありがとう」
「果歩ちゃんがまだ来てないねー。気まずいねー。とうしよっかぁ」
店の中に促そうとした私を、青いマスカラを重たげに載せた目が睨んだ。
「何で、電話すんの。イライラする。どうして何でも話すの」
「政美ちゃん」
男たちを置いてあわてて廊下に出ると、トイレの前で二人が立っていた。駆け寄る私たちを見て、チエミの目がほっとしたように緩む。だけどそれも一瞬のことだった。政美は私たちを振り向かず、なおもチエミに言う。
「普通黙っとくよね。親もそれ、どんな気持ちで聞くわけ?」
西の海に面した露天風呂だった。夕日の光が、卵の黄身が割れて滲み出すように空と海の上にとろっとオレンジ色に流れている。
車の中で、電話に着信があった。山梨の市外局番から始まる知らない番号だ。義母に断って出ると、チエミの恩師である添田紀美子だった。何か思い出したことでもあったのか。期待とともに、電話を持ち替える。
「どうしました?」
「お若いですね」
ちらっと私を見た目と声が、微かに笑って聞こえた。開きかけた唇を一度閉じる。舌で湿らせてから、「『天使のベッド』は閉鎖されるのですか」と尋ねた。
『あかちゃんに、なにかのこしてあげて』
字を見ると、何の準備もしていなかったのに、急に鼻の奥が痛くなった。唇を噛んでいないと、視界が潤みそうになる。『なにか』。それは、親が引き取りに来たとき親子関係を証明する何かであり、また、その子がこの先、自分に親がいたことの証拠としてずっと握りしめることになる何かだ。
高岡市の中心から外れているせいか、ひなびてひっそりとした印象の街だった。駅前通りだというのに、壊れたままの自動販売機が放っておかれたままになっている。今とはデザインが違うコーラの缶が日焼けして倒れていた。
「あんたさえつかまれば、奥さんには何も言わない」
『あいつの取材、なかったことにしてよ』
その声に答えずに、待ち合わせの時間と場所を決めて電話を切る。背中が汗をかいていた。携帯をしまうとき、全身からの叫びであるように、深い息が洩れた。
男っぽさの感じられない薄い胸。背も私よりほんの少し高いだけだし、ひょっとすると体重だって私より軽いかもしれない。それくらい痩せている。
真面目な顔を作っても怒っていても、どこか穏やかな微笑みの印象を常に湛える顔が、私は好きだった。
「どうしてもまだ、調べてみたいの」
「ダメだなんて言ってないよ」
柔らかい口調だった。白く細い首が、藍色の浴衣に似合っていた。
「みすほにとって必要なことらしいから、文句は言わない」
「あんた、何様?」
立ち上がっていた。テーブルの水が揺れてこぽれ、周囲の客が一瞬会話を止めて私たちを見た。頬が熱くなる。大地は冷静だった。私を見上げながら、「そう?」と笑いかける。
「ご同類でしょ、みずほちゃんと俺は。あの子たちのこと、バカにしてたくせに」
額の後ろに、痺れたような衝撃が走った。自分の顔から表情が消える。立て直そうとするより早く、大地の満足気な声がした。
熱の塊のような重たい空気が喉にこみ上げ、目の後ろに、瞼を開けていても白く閃光のような光を感じた。ああ、と食いしばった歯の間から吐息が洩れる。
「若いね」
「結婚してないからかもね。みんなみたいに気苦労が少ないから」
果歩が笑い、私もつられて笑ったが、唇の端に拭えない違和感のようなものがぎこちなくこびりついていて、作り笑いのような顔しか作れなかった。
センスのいい子だった。
襟がついたジャケットに、カジュアルな白いTシャツとジーンズをさらりと合わせ、ヒールの高い靴を履いていた。アクセサリーの類は、つけているという事実だけを主張するような目立たないネックレスや細いブレスレットだけ。色も、肌に馴染む上品な金色だった。
及川亜理紗は本当に美人だった。ぱっちりとした目の睫毛が一本一本きれいに上を向いていた。すっと通った鼻梁が、作り物のように完璧なラインを描いている。
テレビで見ても違和感がない、ある種のお手本のようなはっきりした顔立ちは、ニュースを読むアナウンサーたちを連想させた。利発そうで、人に好まれそうな美人。亜理紗が微笑みを浮かべる。
「本当。政美ちゃんの合コンで、いつ一緒になってもおかしくなかったのに」
「はい」
彼女の声や表情から、さっきまでの他人行儀の丁寧さが急速に失われたことに私は気づいた。身内に囁くように緊張を解いた甘い響きの声が言う。
制服のエプロンを外した由起子が、立ち上がって私に近づいてきた。
「良かった。見当たらないから、帰っちゃったのかと思った。場所、わからなかった?」
「ごめん」
抜け殻のようになった声を、彼女に悟らせたいのか隠したいのか、わからなかった。
「神宮司さん?」由起子が尋ねる。
「何かあったの?」
俯くと、涙が出そうだった。
感傷的になっているのか、せつないからか、チエミに会いたいからか。どれかわからず、どれでもあり、どれでもない。気持ちが得体の知れないマーブル模様のように歪んで捩れて、感情が一つの場所に吸い込まれていく。
「ありがとうございます」と私は答えた。空洞のように空っぽな声だと自覚する。
翠ちゃんが、どこかから車を借りてきてくれた。土に汚れた軽トラックは、中まで陽に焼けて、シートの表面がバサバサに乾き、座席のビニールが足元にぼろぼろこぼれていた。
「何、この車」
「借りた」