小説から学ぶ表現、描写 雫井脩介さんの検察側の罪人より
「『週刊平日』ですが、ちょっとお訊きしたいことがありまして、お時間いただけませんか?」
最上は挑発的にも見える薄い笑みを顔に貼りつかせたその男を怪訝に見やった。歩みを緩めたところに、彼は名刺を掲げながら近づいてきた。
そんなことになっている予感が微塵もなかったのは沖野と同様だったらしく、彼女はしばらく絶句して、ただ沖野を見つめていた。
「どういうこと?」
たっぷりと重い空気が沈滞してから、彼女がそう呟いた。
「これで土俵際まで追い詰められていたのが、一歩押し返せたかな」
白川は澄ました目に勝ち誇るような光を浮かべて沖野たちを見やった。
「防犯カメラのほかに、沖野さんが考えてる道筋はあるんですか?」
むっちりした身体に張りついたTシャツ一枚で椅子に腰かけた小田島が、昌子に麦茶を頼んでから、沖野にそんな問いかけを寄越した。
事務所から浅草橋の駅まで歩くと、沖野の身体にも汗が浮いた。アスファルトが白く見える暑い夏の午後だった。蒲田に着いた頃には日もだいぶ傾いたが、やはり街を歩くとすぐに身体は汗ばんできた。
「はあ……こんなこと考えてもしょうがねえんだけどな。もうどうやったって、手出しできねえんだし」
沖野はそう言って、ワインをあおる。だが、無力感を意識しようとしても、無力ゆえの憤りが勝り、身体の芯が妙にうずいて落ち着かない。
早々と酔っ払った沖野の口をついて出てくるのは、いつしか愚痴ばかりになっていた。
沙穂がアルコールで頬を染めながらも、いつもと変わらない物腰で聞き役に回ってくれているのをいいことに、沖野は溜まっていた憂さをどんどん吐き出した。
松倉の真剣そのものとも言っていい眼差しに当たり、その言葉は妙に薄気味悪いとげのような引っかかりを残して、沖野の意識の片隅に漂着した。
田名部は淡々と、松倉が都筑夫妻宅において夫妻を刺殺し、借用書や金銭を強奪したという旨の被疑事実を読み上げた。
松倉は真っ青になって、半開きの唇を震わせている。歯ががちがちと鳴る。
若者らしい、くるくると動くような目の光が鈍り、表情から柔らかさご一切消えている。
この三晩ほどはまったく寝つけず、睡眠導入剤を口に放りこんで、ようやく朝方の二、三時間、うとうとするだけということが続いていた。
目は充血していないのが不思議なほど重く、荒れた肌はあちこちでぴりぴりとした痛みを放っている。
「ありがとうございます」
冷や汗をかく思いで礼を言った沖野に、最上はちらりと尖った一瞥を向けた。
最上は横領容疑の弁解録取書には目もくれず、根津の事件を語った調書を険しい面持ちで読んだあと、重そうな息を鼻から抜いた。
「どうでしたか?」
警察のバンに乗りこんで大きく息をつくと、長浜が逆に、中の成果を訊いてきた。
「ふむ……」最上は苦味を口調に混ぜた。「あとは取り調べに懸けるしかないな」
「そうですか」長浜は残念そうに呟いた。
くすんだベージュ色のモルタル塗りのアパートだった。左右にも同じようなアパートが迫っていて、日当たりがよくない。郵便受けは塗装が剥がれてそこかしこに錆が浮き、いくつかのそれにはチラシが差しこまれたまま風雨にさらされている。
田名部は席を立ち、最上らに合流する。眼鏡の奥にある切れ長の目からは、どんな感情が秘められているのかうかがい知ることはできない。
人見知りで臆病で、しかし心を開くと、茶目っ気のある笑顔を惜しみなく振りまいてくれた。素朴な愛嬌は、まさに下町娘のそれであり、道産子の血を引くそれであった。優しさの萌芽を両手に抱えていて、それは数年先、女としての大きな魅力に育つはずだと見守る者の目には映った。
最上が強気の言葉を送ると、森崎は缶ビールに口をつけながら、目尻に小さな笑い皺を刻んだ。
幹部席に座る田名部を見た。二十三年前……彼は所轄の刑事から捜査一課に抜擢されたばかりというところか。今はもう五十をすぎているだろう。若さは削げ、七三分けの頭には白髪が目立つ。銀縁の眼鏡をかけた、いかにも管理職といった風貌だ。
「あの……」半ば公然と疑いの目を向けられていることを知らされ、松倉はその声音に動揺をにじませた。「一つはっきりと申し上げたいんですがね、私がこの事件に関係してるなんてことは、これは天地神明に誓ってありませんから」
森崎がその言葉に対してうなずいたのかどうかは分からないが、声に出しての反応はなく、最上は沈黙を聞いただけだった。
無理に作っている笑みが強張っている。垂れ目気味でどこか気弱にも見えるその横顔には、油断のならない狡猾さも見え隠れし、六十男が持っているような余裕や貫禄といったものはまるで見当たらない。最上にはその人相が卑しく見えた。
「あなたが見た男は、今、取調室にいた男に間違いはないんですね?」
「ええ、見たとたん、思い出しました。あの人です」
尾野治子は少し入れ歯が浮いたような、もごもごした言い方であったが、口調は捜査協力をしているという意識から少し高揚しているように聞こえた。
「都筑さんの家には行ってないってことだね?」
「……ええ」
疑い混じりの耳で聞くと、ところどころで松倉の答えに動揺を押し隠すような微妙な間が挿みこまれていることに気づく。
最上はうつむいた姿勢のまま、動こうとしない。
全身で聴覚を司っているかのように、取調室のやり取りに集中している様子だ。
「何時頃?」
「たぶん、五時半とかそれくらいかと……」
「おかしくないか?」森崎は上目遣いに刺すような視線を松倉に向けた。「五時半に家に行って、そのあと六時になって、そっちにお邪魔していいか訊くなんてさ」
「女遊びとか、そういうのも?」
「えへへ、まあ、そういうのもたまにはね。私らくらいになると、もう、いつ使い物にならなくなるか分かりませんから。できるうちにっちゅうかね。へへへ」
「いやあ、まだ全然元気そうだし、大丈夫でしょ」
「いやいや、へへへ」
下卑(げひ)た笑いが最上の耳をざらりと撫でる。
「少なくとも死後二日以上は経っとるようですから、簡単には片づかんでしょう」
切れ長の目から覗く瞳を忙しなく左右に動かしながら、青戸はそんなふうに言った。
「殺人には違いない?」
「刺されてますからね」
松倉重生。六十三歳。
その名前が引っかかった。
どこかで見憶えのある名前に違いない。
何かの事件で関わった男だろうか。
前科は記されていない。
しかし、最上の中の記憶の扉はかたかたと振動している。そんな感覚がある。なかなかうまく開いてくれないが、その男が重要人物であることを訴えているように、錠をきしませている。
やがて、考えているうちに、ふとその扉が開き……。
最上は、その名前の収まるところを見つけた気がした。
青戸の淡々とした説明の中に松倉の名前が出てきて、最上は神経の芯がじわりと熱を持つような感覚を抱いた。武者震いを起こしかけ、手でゆっくりと首をかきむしるようにしてそれを抑えた。