「退院、おめでとうございます」
とりあえずそう口にした。
「……ありがとう、ございます」
彼女はうつむいたまま言った。お互い話の接ぎ穂を失って、沈黙が流れた。
大通りに足を踏み入れた。また残暑がぶり返していたが、日が傾くとジャケットに袖を通したくなる。ようやく本格的な秋がやって来ていた。
黒目がちな瞳が動いて、ちらりと俺の顔を見る。
ようやく秋らしくなり始めた柔らかな光が部屋に満ちている。彼女のなめらかな頬や腕の産毛が白く輝いていた。
病室の空気が音を立てて凍りついた。
不機嫌そのものの声で言う。「なんだよ」の「な」が「あ」に聞こえる。このあたりではよく使える言い回しだ。俺も中高生の頃は使っていた。
緊張をほぐすつもりなのか、突然彼女は深呼吸を始める。パジャマの胸元が大きく上下し、俺の視線がそのあたりに集中する。小柄で痩せているとばかり思っていたが、勘違いしていたかもしれないなー いや、アホか。気付かれたらどうするつもりだ。
つややかに濡れた黒髪が一筋目の上にかかっていた。俺の喉が独りでに動いた。
唇にかすかな笑みが漂っている。
彼女の白い喉がぐっと動いて、変なトーンの声を絞り出した。
おかしな用事を持ちこんだ自分にますます嫌気が差した。俺は乾いた唇を湿した。
「高いんですか、これ」
本を返しながら照れ隠しに尋ねる。彼女は斜めに首を振った。首をかしげているのか頷いているのか微妙なところだった。
体を畳むように深々と頭を下げてくる。綺麗な髪の分け目がこちらを向く。人のつむじをまじまじと眺めたのは初めてだった。
喉の詰まりを吹き飛ばすように無理やり咳払いした。
長い睫毛の下にすっと通った鼻筋。薄い唇が軽く開いている。柔らかい感じの美貌には見覚えがあった
会社勤めの母が家にいることに首をかしげてから、今日が日曜だということを思い出した。卒業してから、曜日の感覚がふやけたように曖昧になっている。
泣き出すより早く、俺は再び直立させられた。至近距離から観音菩薩の三白眼に睨(ね)めつけられる。
ノースリーブの白いブラウスに紺のロングスカートという地味な服装で、ゆるく三つ編みにした長い髪を、うなじの上で巻き上げて留めていた。色素の薄い肌に大きな瞳の黒さが目立つ。まっすぐ伸びた鼻筋の下に薄い唇があった。
半袖の白いシャツの背中が汗でぴったり貼りついている。セミの声がうんざりするほど近い。あちこちに植えられた紫陽花はまだ散っていないのに、梅雨明けと同時に夏が始まっていた。