迷いこむような感じで古い団地の敷地内に入った。年代相応に立派な銀杏の木が、古ぼけた四階建てのアパート群の足元に、乾いた落葉を敷きつめている。
気がつくと車は、銀杏の落葉が散り敷く石畳の坂道を登っていた。
時刻は真夜中だったと思う。黄色い落葉の絨毯のただなかに、シクラメンが赤いぼんぼりを並べたように咲いていた。
ボスは細巻きのシガーをくわえると、私にも一本勧めた。肩ごしの出窓には、絹を張ったような秋空が拡がっていた。
小谷は私の想像を見透かしたように、グラスをくわえた唇の端で笑った。
目尻に魅惑的な皺を寄せて女は微笑んだ。齢は三十なかばだろうか。
お屋敷の塀ごしに、欅(けやき)や銀杏の大樹がうっそうと枝を伸ばし、石畳のゆるい坂道の空をすっぽりとおおいかくしていた。
ガードレールに腰をおろした若者たちに向かって、貫井は訊ねた。鶏のとさかのような髪をかしげ、耳にぶら下げたピアスを振って、若者たちは笑い返した。
酔った瞳にネオンが爆ぜた。
湿ったメガネの中に赤や青や黄色がにじんで、とっさに踏みこたえとき、貫井は靖国通りの向こう岸にふしぎなものを見た。
車はやがて、海岸通りの手前にぽつんと建つ店の前で止まった。真白にペンキを塗りたくられた二階家で、出窓には豆電球が点滅し、いかにもそれらしい名前の看板を掲げている。煙るような雨の中で、ネオン管がジイジイと鳴いていた。
走り出すとすぐに駅前の家並は尽き、道の両側は畑と雑木林ばかりになった。緩やかな丘陵を海に向かってまっすぐに下る。闇の涯(はて)に流星のようなヘッドライトが行き来している。そこはたぶん海岸通りで、松林の向こうは海なのだろう。
細かな春の雨が、煙のようにサーチライトを巻いていた。
渇いた咽にビールがしみ渡った。ひどく苦い。理不尽な味だ。
列車は地上に出た。湾岸の高層ビルに灯がともり始めていた。春の雨が車窓を斜めに縫っている。
店屋物の器がどの部屋の前にも堆(うずたか)く積まれた廊下を歩き、事務所のインターホンを押すと、ドアの上に取り付けられた監視カメラに向かって吾郎は笑いかけた。
仙次は四方を囲むような幌舞の山を見渡した。雪あがりの空は絵具をまいたような青さで、朱い国鉄色のキハが良く似合っていた。
それらは古ぼけた制服の胸ふかく、たとえば機関車の油煙の匂いや炭ガラの手ざわりとともに、澱のように凝り固まっている記憶だった。ひとつの出来事を語るたびに、乙松の心は確実に軽くなった。
薄暗い台所に百合の花のようなセーラー服を背に向けて、少女は水を使い始めた。
「ねえ、おじさん。もっと話きかせて」
ガラス窓の外で、雪が唸り始めた。
「やあや、ふぶいてきちまったなあ。ゆっくりしてったらよかんべ。横なぐりに吹いてるし」
少女は花びらのような唇をすぼめて、汁粉をすすった。ときどき賢そうな眉をひそめて、じっと乙松を見つめる。
辛い思い出を綿入れの懐にしまい、乙松は襟をかき合わせて俯いた。
春になってポッポヤをやめたら、もう泣いてよかんべか、と思った。
幌舞駅は大正時代に造られたままの、立派な造作である。広い待合室の天井は高く、飴色の太い梁が何本も渡されていて、三角の天窓にはロマンチックなステンドグラスまで嵌まっていた。
厚ぼったい国鉄外套の肩に雪を積もらせ、濃紺の制帽の顎紐をかけて、乙松はホームの先端に立ちつくしている。いちど凛と背を伸ばし、軍手をはいた指先を進入線に向けきっかりと握り示す。