会場は凪いだ海のようだった。その海に向かって深呼吸する思いで、瑶子は言葉をついだ。
見知らぬ肖像画を見つめるうちに、ドラの口もとに苦い笑いがさざ波のように寄せてきた。
ドラが誘えば抱いてはくれる。が、何かとても即物的な「交わり」であって、情愛は少しも感じられなかった。
自分はもう、生きて帰れないだろう。
瑶子の中に絶望とあきらめが黒煙のように広がった。と同時に、たったひとつの決意が焔(ほのお)のごとく燃え上がった。
グラスをぐいっとあおった。液体が熱をもった蛇のように喉もとを落ちていった。
ピカソとバルドは、どちらも黙りこくったまま、ドラの喉が生き物のように蠢(うごめ)くのを眺めている。
「どういたしまして」とエリンコは太い眉の下の目を細めて返した。
冬のおだやかな午前中である。大西洋の波はやや荒れてはいるものの、水蒸気に包まれた上空はふんわりとやわらかに白くかすんでやさしい色に染まっていた。
二十歳の青年は、光を宿した真剣な瞳でアルフレッドをまっすぐみつめながら、そう語った。
朝まで残っていた雨が出かける頃にはすっかり上がっていた。
グッゲンハイム・ビルバオは銀色の表面を朝日に反射させてまばゆく照り輝いている。
雨の匂いのするトレンチコートを脱いで、ベッドの上に投げた。窓に近づくと、ぴっちり下がった電動式のブランドを開ける。水滴が流れ落ちる窓ガラスの向こうに、妖しい光を放つ飛行船にも似た美術館の巨大な建築が現れた。
シャンゼリゼ大通りには早々とクリスマス市が立ち、ガラス製のツリーのオーナメントやキャンドルを買い求める人々でにぎわっている。空気はきんと冷えて、吐く息は白く見えたが、クリスマスを待ちわびる人々の顔は輝いていた。
さっきまでの和やかな昼食の風景が幻のように立ち消えた。瑶子は、テーブルの周りの空気が一気に緊張するのを感じた。再び悪い予感が疾風のように胸の中に吹き込んでくる。
瑶子は怒りの粒が体内にふつふつと湧き上がってくるのを感じた。
パリ万博が開幕したという華々しいニュースが同じ紙面に並ぶのを、ピカソは砂を噛むような表情で眺めていた。
つややかな黒髪を櫛目が見えるほどきちんと分け、左手首にはカルティエの腕時計「サントス」が光っている。糊のきいた真っ白なシャツに、仕立てのいい麻のジャケット。袖口にちらりと覗くカフスは漆黒のオニキス。
片方の眉をひょいと上げて、愉快そうな声でカイルが言った。
あのときの戦慄。冷たい素手で心臓をわしづかみにされたような、あのひやりとした感覚。みつめるうちに発火して、めらめらと全身を包み込んだ炎のごとき衝撃。
<ゲルニカ>。 ー私の運命を、人生を変えた、あの一作。
「相変わらず君は熱心な読者のようだね、ヨーコ。ありがたいこった」
広げた新聞の向こう側で声がした。「ニューヨークタイムズ」のカイル・アダムスが分厚いコートを着たまま立っていた。トレードマークの丸眼鏡が真っ白に曇っている。瑶子は思わず笑ってしまった。
通勤客がいっせいに車内から溢れ出す。駅構内はすえて臭いか充満し、蒸し暑かった。
灰が落ちて短くなったタバコを、山積みのカンヴァスの上に載せられた灰皿で揉み消すと、ピカソはようやく振り向いた。
ガウンを着て、スリッパをつっかけたピカソが、トメットの床に立ち、無地のカンヴァスに向かい合っている。背中越しに、タバコの紫煙がゆらゆらと立ち上がっているのが見える。
いかにしてこの無垢な画面をやっつけてやろうかと、思い巡らせているのだろうか。
ピカソの分厚いまぶたが、ゆっくりと開いた。窓辺に佇んでいるドラを、黒々とした目がみつめる。
艶やかな頬の上を水滴が玉になって落ちていく。張りのある、しみひとつない、ほんのりと褐色を帯びた肌。豊かなまつげに縁取られた鳶色の瞳。形のよい唇。そこにたっぷりの口紅を載せれば、いっそう肉感的に輝く。真っ赤なマニキュアの指先で、唇にそっと触れてみる。
父親ほども年の離れた男の顔には、深い皺が刻まれている。閉じたまぶたの奥に隠れているのは、いかなるものでもその本質を瞬時に見抜いてしまう目だ。暗闇のように黒々としたふたつの目。そこに閃光が走った瞬間、自分は捕らえられてしまったのだ。
セーヌ河は白々とやわらかく輝き、貨物船がのんびりと通り過ぎる。絹のドレスを切り裂くように、さざ波が船の後についてゆく。