人生も後半戦! これから先も楽しもう!

人生も後半戦になったら、これまでの生き方に後悔することもあります。しかし、後悔しても仕方ない。この先楽しく生きるためにいろんなことに挑戦

原田マハさんの異邦人(いりびと)の表現、描写

 

 せわしなく視線を巡らせて、弔問客の中に菜穂の姿を探した。

 

 

 菜穂をあなたと結婚させたのがそもそもの間違いだったと、言葉の刃で一輝をめった刺しにした。

 

 

 克子は憔悴しきって帰ってきた。

 ーもうあの子は帰ってこないわ。全部、あなたのせいよ。

 克子の帰京を待ち切れずに東京まで迎えにいった一輝に向かって、克子は泥の玉を投げつけるように言った。

 

 

 薄暗い怒りが身体の底からしんしんと湧き上がってきた。

 

 

 鮮やかな杉苔の緑、その上を覆う紅葉の落ち葉。その鮮烈な赤。その合間を縫って、一条の陽光が差し込む。光に照らされたところだけ、苔も、落ち葉も、黄色く、また白く輝いている。

 

 

「……樹。菜穂よ」

 襖を開けずに、菜穂は声をかけた。

「ー入って」

 か細い声がした。鈴が震えるようなはかない声。菜穂は、左腕に菜樹を抱き、右手を引手にかけて、ゆっくりと襖を開けた。

 

 

 せんは、小さな四角いかたちに正座をしたまま、菜穂の告白にじっと耳を傾けていた。全部聞き終わると、ようわかりました、とひと言、言った。

 

 

 グラスの中で琥珀色の液体がゆらゆらと揺らめいている。一輝は、奇妙な夢を見ているようなまなざしで、その液体に見入っていた。

 

 

 まっすぐな長い黒髪を垂らし、薄紫のワンピースを着ている。うっすらと頬紅をさした白い顔は、夕闇に浮かぶくちなしのように妖しく、みずみずしい。

 

 

「母親じゃないわ」

 きっぱりと、菜穂が言った。氷結した水面にぴしりと石を投げ入れるように。

 一輝の顔を、再び、驚きと恐怖が入り混じった靄が覆い尽くした。

 

 

「全部、あんさんのためやったんや」

 立野の言葉に、菜穂は不意をつかれた。

 胸の中で懸命に抑えていた感情の扉が開いて、そこから波がざあっと押し寄せてきた。知らず知らず、涙がひと筋、菜穂の頬を伝って落ちた。

 

 

 いままで一度たりともそんなに激しい口調で夫に責められたことがなかったからか、菜穂は見る見る意気消沈していった。

 彼女の白い顔に重苦しい雲がかかるのを認めて、一輝は、はっとした。

 

 

 菜穂は顔を上げて樹を見た。能面のような表情のない白い顔が一心に菜穂をみつめている。

 

 

 振り向くと、白根樹が立っていた。薄闇の中で、瞳を青白く輝かせ、菜穂をみつめている。

 背筋をぞくりと蠢(うごめ)くのを感じた。樹が妙に透き通って見える。物の怪(け)じみた美しさだった。

 

 

 苦酸っぱい嫌悪感がこみ上げてきた。まるで自分が照山にいたぶられ、拘束されているような気がした。

 

 

 樹は、意識的に誰の顔も見ないようにしているようだったが、ときおり濡れたように光る瞳をちらと菜穂のほうへ向けた。そしてほんの少し緩めて微笑を浮かべるのだった。

 

 

 三人が白々しい会話を交わしている間、白根樹は、薄闇の中に月のように白い顔を浮かべて、唇を閉じたままだった。

 

 

 菜穂はうつむいたまま顔を上げない。よく磨かれた紫檀(したん)の座卓にさかさまに映っている顔には表情がなかった。

 

 

 樹の表情には、霞のように不審感が広がっていた。それを払拭しようとして、菜穂は重ねて言った。

 

 

 うちのコレクションにあった、モネの「睡蓮」ね。あれ、売却したのよ。母・克子の言葉が繰り返し鼓膜の奥に蘇る。

 

 

 閉じたまぶたの裏に涙が溢れ、まなじりを伝って落ちていく。その痛いようなぬるさを感じながら、菜穂はいつしか眠りに落ちた。

 

 

 朝から降り続いていた雨が上がり、薄雲が嵯峨野の山のいただきを墨絵のように霞ませている。

 

 

 ふと、彼女が振り向いた。思いがけず、一輝の視線と彼女の視線が、一直線につながった。

 その瞬間、心臓に冷たい素手でひやりと触られたような感触があった。

 凪いだ湖面のように静まり返った瞳。冬の木立のような凛とした立ち姿。

 みつめられて、一輝は、その視線から逃れられなかった。吸い込まれるようにして、一輝もまた、彼女をみつめ返した。

 

 

 白いシャツに、ジーンズ。ベージュのパンプス。バレッタで無造作に結い上げた黒髪。

 クレーの絵に向き合う後ろ姿こそが絵のようで、思わず見とれていた。

 

 

 閉店間際の展示室で、クレーの作品が掛かっているパーテーションのあいだを、清流を遡る鮎のように、するりするりと抜けていった後ろ姿。

 

 

 彼女を目にした瞬間、一輝の記憶の泉に、勢いよく小石が投げ込まれた。妖しい波紋が、一輝の中に一気に広がった。

 

 

 白いシャツにジーンズのいでたち。ベージュのパンプスをはいている。色白の細面を縁どる、まっすぐな長い髪。泉のほとりにひっそりと咲く水仙のような、すらりとした立ち姿。

 

 

 明るい雨が降っていた。まもなく天気が回復し、薄日が差すであろう予感を孕んだ明るさだった。少し蒸し暑くはあるものの、この湿気も京都らしく、菜穂は嫌いではなかった。

 

 

 障子越しに部屋に差し込む外光は、絹のようになめらかで、座卓に広げた半紙の上をうっすらと照らしている。

 

 

 智昭は、息子の顔をじっとみつめた。白目の部分ら、疲労からか、黄色く濁っていた。

 

 

 枕元に手を伸ばし、スマートフォンをつかむ。刺すような白き光を放って、画面に満開の桜の花が現れた。時刻は午前六時半だった。

 

 

 まっすぐな背中に白いシャツをきちんと着て、細身のジーンズを穿いている。ほっそりとした下肢には無駄な肉が一切ない。素足にローヒールのベージュのパンプス。足首は引き締まって、くるぶしが形よく露出している。

 

 

 長い髪を結い上げて、うなじが白いシャツからすっと立ち上がっている。天井からのスポットライトがちょうどそこに当たっていた。後れ毛が、細い首にまとわりついている。

 

 

 満開の桜は、指先で触れようとするかのように、水に向かって枝を伸ばしている。枝から散り落ちた花びらが水面に白い帯を作っている。白絹を広げたように、うつろいながら、花びらの帯は一輝たちの足下に流れていった。

 

 

 美術館の南側には疎水が走っていた。水路沿いに桜が薄雲のように群れて、揺れている。

「わあ、すごい。桜が、あんなに」

 

 

 客待ちのタクシーの長い列が、夜の底に沈殿していた。一輝はその一台に乗り込むと「ハイアットリージェンシーまで」と行き先を告げた。

 

 

 駅構内から出てきた一輝は、身震いをして、トレンチコートの襟を立てた。

 底冷えする冬のなごりが夜の空気にはあった。湿った花の香りとともに、ぴしゃりと平手打ちするかのような夜気があった。