東野圭吾さんの聖女の救済の表現、描写
薫は顎を引き、綾音の様子を見つめた。美貌の容疑者は、目を伏せ、唇を結んだ。まだかすかに笑みを残してはいたが、彼女を包む優雅な気配は、日が沈むようにゆっくりと翳りを見せ始めていた。
「どこに毒物が仕掛けられていたのかが判明したんです。様々な科学的見地から、浄水器の中と考えて、まず間違いありません」
薫は綾音の顔を凝視したが、その表情には細波(さざなみ)さえ立たなかった。澄んだ目を草薙に向けたままだった。
草薙は頭を抱えた。鼓動に合わせて耳鳴りがした。
湯川の話を聞き、草薙の脳裏に何かが引っかかった。思い出せそうで思い出せない何か、知っているのに知っていること自体を忘れている何か、だ。
その小骨のような記憶が、ぽろりと思考の中に落ちた。草薙は息を呑み、湯川の顔を見つめていた。
笹岡は太くて短い腕を組み、首を捻った。
「あなたは何をどこまでご存じなんですか」慎重に探りを入れた。
「ひと月ほど前に真柴に打ち明かされたことがあるんです。そろそろ相手を替えることを考えている、という意味のことをね。どうやら、ほかに女が出来たらしいと睨んでいたんですが」猪飼は三白眼になった。「警察が、その程度のことを調べられないはずがない。調べたうえで、僕のところに来られている。違いますか」
「あなたと真柴義孝氏とのことで、二人で話し合われたそうですね」
「どうしてそれを?」
「草薙ご綾音さんから聞いたそうです。あなたを警視庁に連れていく時に」
宏美が何も言わないので、薫は素早く横目を走らせた。彼女は悄然としてように目を伏せていた。
だが心の中の天秤は、なかなか止まらないらしく、彼女は押し黙ったままだ。草薙はしびれをきらした。
悲しみと衝撃が、改めて綾音の全身を襲ったらしい。彼女は崩れるように床に膝をついた。肩が小刻みに震えるのを草薙は見た。しゃっくりするような泣き声が、かすかに漏れている。
促されてリビングに入ってきたのは、二十代半ばと思われる、ほっそりとした女性だった。セミロングの髪が、近頃の女性には珍しく黒い。その色が、肌の白さを一層際立たせていた。もっとも今にかぎっていえば、白いというよりも青白いと形容したほうが適切かもしれなかった。いずれにせよ、間違いなく美人の部類に入る。化粧の仕方も上品だった。