中山七里さんの贖罪の奏鳴曲に出てきた名言
点ではなく、線で考える。
それは誰でもない、御子柴自身の思考法でもあった。
「どんなふてぶてしい野郎でもな、悪いことした奴はひと言目は大抵すぐに謝るんだ。被害者と遺族には申し訳ないことをした。とても後悔している。この罪は一生かけて償いますってな。まあ、それが普通だ。多分、喋っている時は本人も本気なんだろう。しかし、口に出した途端に気持ちが軽くなる。懺悔したっていう気分になるものな。そして、すくに贖罪を忘れる。実際、口に出す言葉にはそれだけの効果がある」
御子柴は虚を衝かれて黙り込む。
「きっと嘘ってのは自分に吐くものなんだろう。だから、そういう言葉を吐き続ける奴は自分を騙し続けて、いつしか更正の機会を失っていく。償いというのは言葉じゃなくて行動だ。だから懺悔は口にするな。行動で示せ」
裁判員裁判の肝は裁定に市民感覚を反映させることだが、感覚はどこまでいっても感覚でしかない。そして感覚とは己の立ち位置や時間の経過でいくらでも変容する胡乱(うろん)なもので、法の素人がそんな尺度で罪を推し量ることが果たして妥当なのかどうか、未だ明快な回答もないまま制度だけは走り続ける。
思いやりというのは多くの場合本人の勘違いか自己陶酔か、さもなければ偽善だ。何が親切で何が迷惑なのか。それは同じ境遇、同じ立場にならなければ到底理解できるものではないと御子柴は思う。