鼻の奥が塩水で洗われたように痛くなった。
この状況で彼女が泣くのは不自然ではない。だが、過ぎると不審に思われそうなことと、一度泣いたら過ぎてしまうような気がして、喉の固まりを飲み込んだ。
その後、警察と保険会社と彼の身内と彼女の身内と会社の人が入り乱れて、状況は津波のごとく暴力的に過ぎ去った。
ドラマならここで家族が出てきた医師に駆け寄る。ー彼女は駆け寄らなかった。
ぎぃぃっと首の骨が軋んだ。自分が顔を上げたという認識は、手術着を着た医師が視界に入ってから追い付いた。まるで、関節が錆び付いたように体が巧く動かない。蝶番なら油を注せるのに。
近くには公衆電話がある。きっと、この待っている時間に夫の実家に連絡を入れたほうがいい。理性では分かっているのに、根が生えたように腰が上がらない。
だが、これ以上は美意識に反するので好奇心に蓋をする。
「あのさ」
彼はテーブルの上で組まれた彼女の両手を包んだ。
彼女は頷いた。顎に決意の梅干しができている。
力任せに鞄を振り回し、彼を近寄らせまいとする。
「寄らないで!」
鋭く叫ばれて、その音階は思いのほか深く彼の胸をえぐった。
一行目から吸い込まれた。するすると目が文章を追う。いや、目が文章に吸いついて離れない。文章に連れて行かれるようにーー意識が持って行かれる。
「……家、帰って、どうするの」
電池が切れかかったように、切れ切れに彼女は尋ねた。