佐藤の思いが、無数の針のように私に突き刺さる。
少なくとも自分一人で抱え込んでいるよりは気が楽になるのではないだろうか。しかし、舌は口の中で丸まり、喉は誰かの手で絞めつけられているようだった。
少しだけ重苦しい沈黙が、私たちの間にカーテンをかけた。
喜美恵が、真っ直ぐ私を見つめた。柔らかい照明を受けて、瞳が煌めく。無数の小さな星が、彼女の目の中で爆発した。
喜美恵が拳の上に顎を乗せ、挑むように私を見た。
無言で、父が振り返る。色濃い疲れと、老いの兆候が、顔の隅に浮かんだ。
「父さん、いつからそんな情けないことを言うようになったんですか?」
「情けない?」父の眉が、右側だけすっと上がった。
不安は二つあった。一つは、中谷が完全に勘違いしているという可能性。もう一つは、祖父の記憶が、年齢という荒波に削り取られてしまったという怖れだ。
どういうことだ、と私か聞く前に、喜美恵は車を下りていた。腰を折って車の中を覗きこみ、わたしに手を振る。軽やかな笑顔のサービス付きで。
石川喜美恵という名前は、記憶の奥底にしまいこまれ、埃を被っていた。
「いや、それはちょっと」中谷が掌を広げて、額を両側から揉み始めた。そうすることで記憶が搾り出せるとでもいうように。
目の前を、信濃川がゆるゆると流れる。少し濁った水は、幅三百メートルの茶色い布を広げたように見えた。
緑川は何も言わずに、短い足をフル回転させて、信濃川の方に歩いて行った。
「今朝はまだ、冷えるね」緑川が、がっしりと組んだ両手に息を吹きかけた。コートの前はきっちり合わせたままである。私の古いゴルフは、暖房の効きがあまり良くない。
ゴルフが停まるか停まらないうちに、緑川がドアを開けて滑り込んでくる。少しへたった助手席が、みしみしと嫌な音をたてた。
緑川が、デスクに肘を乗せ、頬杖をついた。遠慮がちだが、自信に溢れた笑いが浮かんでいる。何だ? 緑川のこんな表情を見るのは初めてだ。どこか、馬鹿にするような顔つき。若僧が、という台詞が薄い色で顔に書いてある。
残り少なくなった白い髪が、頭の天辺(てっぺん)でふわふわと揺れた。
背広のポケットから煙草を取り出し、口に持っていこうとしたが、しばらく躊躇って、結局パッケージに戻した。
「五十年も前の話だから」私は腹の上で手を組み、シートに背中を預けた。「信じられないな。戦後すぐでしょう」
「おう」新谷がにやにやと笑いながら手を上げる。自分のギャランに乗るようにと、顎をしゃくった。
夕食の準備中だったのか、家の中から、醤油と出汁の匂いが濃く漂い出て来た。
体の線を隠す、だぼっとした服に身を包み、時折馬鹿笑いを上げながら、歩道のアスファルトに印を付けようとするように、煙草を押しつけている。
新谷がフェンスの上に両腕を乗せ、そこに顎を預けた。新しいガムを口に放り込み、盛大に音をたてて噛み始める。
「よ」短く言って、池田が一瞬だけ表情を緩めた。