「いえ、何も……」
唾液が引っ込み、声がかすれた。
まだ十時を回ったばかりだが、睡魔はすぐそこで手招きしている。
少し眠ろうと思ったが、睡魔は周辺を回るばかりで近寄ってこず、眠いのに眠れないという不安定な状態と闘うこととなった。
「急ぎなんですか?」
「そう。だって聞いたでしょ? 部長、明日の昼から出張だって」
直美は、喉の奥から酸っぱいものがこみ上げてきた。自分でやってくださいと言いそうになるが、もちろんそんな勇気はない。
直美の混乱にお構いなく、斎藤夫人はしゃぺり続けた。その甲高い声が、直美の耳を素通りしていく。
ショパンのピアノソナタが部屋に流れる。昨日までの緊張感がうそのように、直美の神経は一本一本茹でたパスタのようにしんなりと落ち着いていった。
少しくらい寝たほうがいいのではないか。三十分、じっとしているより、体力的にはいいに決まっている。そんなことを考えていたら、闇に引っ張られるように、意識が薄れていった。