堂場瞬一さんの「焔」から学ぶ表現、描写
右足首の怪我から復帰した日、本拠地東京スタジアムでのベアーズの三番打者、沢崎鉄人は首位打者に躍り出た。三割二分五厘という数字は決して満足できるものではないが、首位打者という言葉の響きはやはり心地良い。まだシーズン途中下車、一時的なものとはいえ、リーグの全ての打者が俺の足元にひれ伏せているのだから。その数字を頭の中でこねくり回し、あれこれ飾り立てているうちに、ヒーローインタビューも終盤に差しかかっていた。
「いよいよドラマチックになってきましたね」
「残り十試合、頑張ります!」
傍らに置いてあったペットボトルを取り上げた。顎を上げ、喉を真っ直ぐにしてスポーツドリンクを流しこむ。
なぜか異様に緊張していたことに気づき、沢崎は握り締めていた拳をぱっと開いた。濡れた拳が、照明を受けて鈍く光る。
沢崎は、顎に胸がつくまで大きくうなずいてやった。
「面倒臭い話は抜きにしよう」
「ああ、いいよ」ルイスが、顎の関節が外れそうなほどの大欠伸をした。「もう遅いしな」
「そんなことは自慢にも何もならない。僕の質問に答えるんだ」藍川は表情を消してルイスの顔を見据えた。
咲が思い切り顔をそむけ、部屋を出て行く。「おい」と呼び止めてみたが、沢崎の声は弱々しく、冷たい廊下に消えるだけだった。彼女が叩きつけたドアの音が、沢崎の怒りを完全に挫いた。
ケブィンが部屋の中に滑りこみ、音を立てずにドアを閉める。鍵をかけるのも忘れなかった。アダムの姿を認めると、右の眉を小さく上げてみせる。
藍川が日本に来る。セネタース戦で名古屋に移動するのは明後日の朝だから、明日には彼に会えるだろう。そう考えると、先ほどまでの暗い気持ちが消え、全身の筋肉がぽっと温かくなるような感じさえする。今一番会いたいのがこの男なのだ。
「そっちにいないからここに来たんだよ。クソ、どこなんだ」首が千切れそうな勢いで、大滝がロッカールームの中を見回す。
「はいはい、つき合いますよ」溜息を一つついて、坂巻が車の窓に肘をついた。手首を曲げて、そこに顎を載せる。欠伸を噛み殺すと煙草に火を点けた。
ほとんどの選手がすでに事情は知っているはずなのに、木元の言葉に息を呑み、沈黙が濃霧のようにロッカールームを覆い尽くす。
何を考えてるんだと思った途端、怒りがはっきりと矛先を尖らせる。
不気味な予感が不安に姿を変え、胸の中で広がり出すのを感じた。先日の彼女との会話が蘇り、淡い点線が太い直線に変わる。
「それは分かってるけど……」不満そうに、沢崎が語尾を押し潰した。
「調子、悪いのか」
「いや」下を向いたまま、沢崎が否定した。急に彼の周りに透明だが堅牢な壁が張り巡らされるのを藍川は感じた。
「今日もノーヒットだったな」
「そうだね」沢崎の声は穏やかだったが、冷たく平板な心情を覗かせるものだった。
「冗談じゃない……」憤然と言ったつもりだったが、藍川の言葉は頼りなく宙に溶けた
沢崎には馴染みない清冽なハーブの香りが空気に溶け出していた。
「いいえ。あなたは変わったわ」咲が小さく溜息をついて繰り返す。
「変わってないって」沢崎は笑って否定しようとしたが、口元が引きつり、言葉は冷たい空気の中で凍りついた。
「冗談じゃない」藍川は硬い声で笑った。その笑いがひび割れ、散り散りになってアスファルトの上に砕け散る。