お母さん、どこに行ったの?
今、一緒にハンバーグをこねてたのに。
「卵を一杯入れると美味しくなるんだよ」
そう言って、ボウルに卵を五個も六個も入れて、楽しそうにかき混ぜていたのに。
あれは夢だったのか。
そりゃそうだ。ふつう、あんなに卵を入れるわけないもん。
テーブルに座っていたお父さんもいなくなってる。テーブルもないんだ。
「マー君、絶対に美味しいって言うわよ」
お母さんが言ってた。あのハンバーグ、マー君に食べさせてあげるんだったよね。マー君、怪我して寝てるから。頭が痛いって泣いてるから……。
それは本当なんだ。
さすがに返す言葉がなかった。とはいえ、謝るような気持ちは湧いてこない。やすりで引っかくような彼の言い方に、感情が波打っている。
坂井田は「ヘッヘ……ヘッヘ……」と、頬が勝手に痙攣するような笑いを浮かべていた。
頭を締めつけるような寒気が街を覆っていた。空は鈍色に曇っていた。荒は自分の肩を抱きながら、とりあえず駅舎に入った。
街並みは住宅地の色が濃いが、巨大なコンクリート高架がどこか風景を大味に見せている。
小倉は笑顔を作った。大丈夫です、前向きに頑張りましょうとの言葉を続けたかった。しかし、滝中の顔を見て、言葉を呑み込んだ。
彼の眼は充血していた。それ以上潤むまいと、歯を食いしばっているのが分かる
何とも居たたまれない気分だった。
日々、心でため息をつきながら仕事をしている。辞めたい、辞めたくない、と花びらをちぎって占うように迷っている。
梨絵はミイコの最中に悪意の視線を送りつけ大股で会議室を出ていった。
湯本は得意になって眼に剣を作った。ちょっとでも声に怒気を忍ばせると、相手は怯んで尻尾を垂れた。
「別に乾いたとかそんなもんじゃなくて……」
湯本の言葉は彼ら二人が放つ見えないバリアのようなものにさえぎられた。釜地編集長が大きく首を振った。
「あ?」
湯本は思わず声に棘を乗せた。
「俺に撮らせろよ」
湯本の声に、朱音は敵を発見したウサギのようにビクッと顔を上げた。
「どう?」
何も言葉が見つからず、ただそう訊いた。
「うん」父は曖昧に応えた。「今んとこはまだいいけどな」
小さな安堵も、やがて沈黙が生む気まずさの中に溶けていった。
坂井田は神経を集中させ、産毛を刺激してくるような波動としか言いようのない感覚を読み取った。気配は裏手からアパートの横に回り、表へと動いていく。そう捉えた。
自分の顔に今枝の視線が突き刺さってくるのがよくわかったが、守山は前を向いたまま黙っていた。
湯本を見据える眼だけが、爬虫類の冷たい光を宿して強く存在していた。
彼の脂が自分の心をどす黒く重いものに変えていくような薄気味悪さがある。
畳の部屋は台所と同じように、何一つ置かれていない。守年はカーテンを開けて、光を入れた。四人の歩みに舞い上がられた塵が空中で揺れている。
朱音は自分の心をため息で曇らせた。
守年は話しながら、自分が朱音をどこか子供の楽しめる場所へ連れていったという記憶が薄いことに気づかされた。心のアルバムはすっかり埃をかぶってしまっている。
病魔に冒されていても、芯は頑として動かず、凝り固まっている。自分の気持ちの上澄みさえも汲み取ってもらえない。