<もしもし、慎ちゃん。ベンさんも一緒かしら>
いつもは色気のある立花葵のアルトが、不穏なソプラノに変わっていた。
何と言い返してよいものか、声は思い付くはしから喉元で凍りついてしまった。
タクシーは国道を右折して、線路を跨ぐループ橋を渡った。すると風景はたちまち、異界に沈むような深い森に変わった。
ペントハウスから望む東京湾は、鴇色(ときいろ)の鏡を横たえたように凪いでいた。
かつては理事や役員が使用していたという四階の廊下には、色こそくすんではいるが赤い絨毯が敷き詰められていた。歴史を経た腰壁は重厚に輝き、天井に列なる曇りガラスの淡い証明を移しこんでいた。しんと静まり返っているのは、ふんだんに使用された大理石材と、アルミサッシではない鋼鉄のはね上げ窓のせいだろう。
「要するに六十歳の定年まで、ここでお茶を飲んだり本を読んだりしていればいいってわけ。ここまで言えばわかりますよね」
二人のおやじは白髪とハゲの頭を同じ方向にかしげて、じっと腕組をした。
「ぜんぜんわからん」
異口同音にそう言った。
北海道の地図をそのまま描いた第二師団の部隊章はよほど珍しいらしく、高層ビルの一階の面会受付では、ジロジロと胡乱(うろん)な目付きで睨まれた。
私が借金を返すことの何がそんなにおかしいのか、税理士は谺(こだま)のように笑い続けながら電話を切った。
男の後ろ姿は街灯の光の輪の中に浮きつ沈みつして遠ざかり、やがて曲がり角に消えた。その消える瞬間、男がふいに駆け出したように見えたのは気のせいだろう。
すでに日は昏れ、高台から見はるかす郊外の町々には灯が撒かれていた。
山の端に沈む夕陽が、庭先を茜色に染めていた。蜩がまたひとしきり鳴き上がり、夕空をとよもしてお不動様の鐘がゴオンと鳴った。