肩を波立たせていた橘が、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
その谷川の無策が、もう限界近くまで擦り切れてしまっている寺尾の神経を尖った爪で掻き回した。
そこまで言うと寺尾は、ゼンマイが切れた人形のようにゆっくりと首を垂れた。
「先生、俺たち、わからないことだらけなんですよ。少し聞かせてもらえませんか」
鮎美は頷くでも首を横に振るでもなく、曖昧に視線を動かした。
黙秘といった意思の介在とは無縁の、胎児の沈黙とでも呼ぶべき無垢な姿だった。
老人は谷川の前で立ち止まり、震えで定まらない手を突き出した。黒ずんだ汚れが染みのようにこびりつき、ざらついた皮膚は砂漠に生息する爬虫類か何かのように硬質化してしまっている。
谷川と新田は売店で缶コーヒーを買い、小刻みにすすりながらホームレスの一団に恨めしそうな視線を投げていた。
わけもわからず、坂東も釣られて赤い歯茎を見せた。
「なんだとう!」新里は金と銀だらけの歯を剥きだした。「しらをきる気か? 後で後悔することになるぞ!」
少女はむりゃぶりつくように麺を啜った。目を丸くする二人を尻目に瞬く間に一人前を平らげ、よほど空腹だったのだろう、小さな手で丼を抱え、スープをゴクゴクと飲みはじめた。最後は顔が隠れてしまうほど丼を傾け、スープが口から溢れた。
ちらほら灯の点きはじめた飲み屋街を抜け、細い路地に入ってくねくね行くと、今にも朽ち果てそうな二階建ての古い木造アパートがあった。裏手の一帯は塀の高い高級住宅が立ち並び、その落差といったらない。
陽は既に陰り、冷たい風が行き場のない枯れ葉を巻いていた。商店街は気の早いクリスマスのデコレーションけばけばしく飾り立てられている。
その"最後の容疑者"であった内海一矢の名は、脳の皺の一部と化して藤原の意識の奥深くに今も留まっているはずだ。
「内海を呼ぶのか」
お忍びで対策室に居座っている藤原刑事部長だった。眠るように眼を閉じているが、ひく、ひく、とつれる頬が張り詰めた内面を伝えてくる。
四十六歳とは思えぬ若々しさだ。がっしりとした体躯に上等の背広。オールバックの髪には白髪が混じるが、それは若者が入れるメッシュのように前髪の一部に集中していて、だから却って洒落た感じに映る。太い眉と同量の蓄える見事な口髭。黒目がちの瞳にも陽性の輝きがあって、
油気のないオールバックの髪が所々寝癖で触覚のように跳ね上がり、目鼻立ちの整った渋いマスクを台無しにしている。焦げ茶の革ジャンは彼のトレードマークといっていい。
透明感のある瑞々しい肌。切れ長の優しげな瞳。長い睫。少女と見間違うほど固く小さな口元。肉薄の鼻梁と小鼻が清楚な横顔をほどよく引き締めている。
一重瞼の細い目に疑念と怒りの色が凝り固まって宿り、唇も油断なく締まっている。
「警察です。喜多芳夫さんですね」
精悍な二つの顔が折り重なるように隙間を埋め、顔より大きな白い息を吐いている。
「本当に何なんですか。用件を教えて下さいよ」
「署でお話しします」
合成音声のような抑揚のない声だった。