人生も後半戦! これから先も楽しもう!

人生も後半戦になったら、これまでの生き方に後悔することもあります。しかし、後悔しても仕方ない。この先楽しく生きるためにいろんなことに挑戦

小説を読もう「夏美のホタル 森沢明夫」

夏美のホタル 森沢明夫

書き出し

コト……。
工房の時代めいた薪ストーブが幽(かす)かな音をたてた。
重なりあって燃えていた薪が崩れたようだ。
ストーブの前で丸くなっていた黒猫の夜叉(やしゃ)が、目と閉じたまま耳だけをピクリと動かした。
深閑として冷え込んだ、山奥の春の夜である。

雲月は木屑だらけの床の上にごろんと仰向けに寝転がった。手脚をいっぱいに投げ出した大の字だ。白髪がちらほら混じり、少しウェーブのかかったぼさぼさの長髪が、バサリと床に広がった。

傍らの床から湯呑み茶碗を拾い上げて、半分ほど残っていた茶をごくごくと飲み干す。
すっかり冷め切っていて、香りもない安物の茶ではあったが、渇いた喉を滑り落ちる液体の感触は心地よかった。
雲月は「ふぅ」とひとつ息を吐くと、白いものの混じった短いあごひげをじょりじょりと音を立ててなでた。なでながら、目の前の作品をうっとりと眺めた。

工房の窓の外が、光の粒子をたっぷりはらんだ淡いすみれ色へと変わった頃、どこか遠くの梢から小鳥たちのさえずりが聞こえてきた。気づかぬ間に、夜が明けていたのだ。

いつの間にか、窓の外の朝日が透明な檸檬色にかわっていた。そしてその新鮮な低い光が工房のなかへと差し込んで、菩薩を燦爛(さんらん)と照らし出した。菩薩の背後の壁にまで朝日はあふれ、神々しいような光が広がった。
「くくく……。後光が、射しやがったぜー」

この日の気候はとことんのどやかだった。空はよく晴れていたし、季節もちょうど春と初夏のどっちつかずのいい具合で、バイクに乗っていても暑くなく、寒くもない。そして、空気はどこまでも清爽で甘く、山々はきらきらした新緑で彩られ、風がまるくて心地よいのだ。

森の樹々のシルエットの上に、クリーム色の半月が浮かんでいて、夜空全体には数えきれないほどの星たちが瞬いていた。

「まさか、この家から、ただ飯をタカろうってんじゃねえだろうな。あぁ?」
最後の「あぁ?」のところで、男は真っ正面からこちらをギロリと見据えた。冷たい五寸釘のような視線に射貫かれて、ぼくの喉はきゅうっと締め付けられた。

「あんな酔っぱらいのせいで、貴重な夏休みを台無しにされてたまるかよ」
内側の苛立ちを丸めて吐き捨てるように言った。

今日も朝から真夏の太陽が沸騰した。
気温は打ち上げ花火のようにビューンと一気に上昇していき、午後になると、もはやアスファルトを溶かしそうな勢いだった。

そこから目と鼻の先にある神社では蝉が大発生していた。ミンミンゼミの鳴き声が幾重にも重なり合い、底抜けに明るくて能天気な不協和音を町中に響かせているのだ。

学食で受賞した写真雑誌のページを自慢げに見せびらかす友人たちを妬み、そして妬んだ気持ちの量だけ、自分の内側に汚れたフィルターがかかっていくのを感じていた。

「写真家になる」という夢も、いつの間にか蜃気楼みたいに遠く霞んでいて、どんなに手を伸ばしても触れられない、ただの迷妄に思えてくる始末だった。

遥か東の空には筋肉ムキムキな入道雲が湧き立ち、コバルトブルーの夏空の真ん中を、白い飛行機雲がスパッと切り裂いていたのだ。

夏の渓谷を渡る川風は、清々しくて、豊かな森の匂いがした。

釣り銭を渡そうとしたら、男は蝿でも追い払うように手を振って「レジに入れとけ」と言った。
「え、で、でも……」
「入れとけ」
ざらっとした声に、凄みが加わった。

ぼくは小さくなっていくその後ろ姿をレジから見詰めたまま、「ふぅ」と息を吐いた。
思いがけず、それは軽やかなため息だった。

胸の奥に沈殿していた澱(おり)のようなものが、少しずつ昇華されていく気がした。

窓から忍び込んでくる風は、ぼくらの産毛をさらりとなでていった。幽かに秋の匂いをはらんだ切ない感触の風だった。

ふいに座にぽっかりと沈黙の穴があいた。

手にしていたぐい呑みを、コト、と卓袱台の上に置いて、まだ半分くらい残っていた生酒を見詰めた。直径五センチほどのその円い水面は、蛍光灯の白い光を映してひらひらと揺れていた。

軒下の風鈴が、凛、と鳴る。
その切なすぎる音色は、ぼくの胸にタトゥーのように刻まれて、生涯忘れられないものになった気がした。

店先で売れ残っていた最後の「こども花火セット」を、通りすがりの都会のカップルが買っていった。
この店から、夏の匂いが消えた。

「月が目の錯覚で大きく見えるってことを教えてくれたときにさー」
「うん……」
「地蔵さん、すごくいいことを言ってくれたんだよ」
「えっ、地蔵さん、なんて?」
「人間ってのは、何かと何かを比べたときに、いつも錯覚を起こすんだって。だから、自分と他人をあまり比べない方がいいって」
夏美は前を向いたまま、静かに月を見詰めていた。
ぼくは勝手にしゃべり続けた。
「他人と比べちゃうとさ、自分に足りないものばかりに目がいっちゃって、満ち足りているもののことを忘れちゃうんだってさ。俺さ、それって、すごくわかる気がするんだよな」

「でも、このトンボたち、みんな冬には死んじゃうんだよね……」
「まあ、そうだよな……」
「生まれてきて、幸せなのかなぁ」
「何が?」
「トンボ」
唐突な夏美の疑問に、ぼくは適当な答えを持ち合わせていなかった。だから、返事が逆に質問になってしまった。
「そもそも、幸せって、なんだ……?」
夏美はトンボの舞い飛ぶ青空を見上げながら、しばらくの間、「なんだろうなぁ」と思案していた。そして、ふいに「はぁ」と明るめのため息をついたと思ったら、ぼくの顔に視線を向けた。
「ん、どした?」とぼく。
「幸せってさ」
「うん……」
「単純にさ」
「うん」
「こういうことかも」
ふいに夏美は、ぼくの手を握った。
そして、ちょっと大きめに手を振りながら歩き出したのだった。
大きく手が振られると、歩幅も自然と大きくなった。夏美の手の温度と、やわらかな感触ーぼくのなかの「気持ち」が、じわじわと弾んでくるのが分かった。
「たしかに、単純なのかもな……」