夜明けの電話は決まって事件の始まりを告げるものだ。衝撃は一気に眠気を吹き飛ばし、無意識で暖かい夢の世界から、痛みや悲しみが支配する現実へと私を引きずり出す。何時であっても、その日の眠りはそこで打ち切られるのが常だ。
しかしその朝は、てっきりいたずら電話だと思った。
無視して頭から布団を被ったが、インタフォンは規則的な間隔で鳴り続けた。クソ、と声を出して飛び起き、ひんやりとしたフローリングの床を裸足で踏みしめる。
ジャージの上下姿のまま、玄関に出る。
嫌疑、か。溜息が漏れ、怒りが急速に萎んでいく。空いた空間に、代わりに疑念が入りこんできた。いったい何事なのだ? この連中は何を疑っているのだろう。
まったく身に覚えがなかった。
わざとらしくゆっくりと洗って流しに置き、「行きましょうか」と二人に声をかける。返事の代わりに、無言の冷たい表情が見返してきた。
「しばらくそこに泊まってますから。俺に用事があったら、ここへ来れば会えるよ」
彼の指先を延長すると、そこには夜空に向かって鉛筆のように細く立ち上がる建物があった。
視線を動かして、窓の外のすずらん通りを眺める。道行く人は様々だ。大学の街だから学生も多いのだが、実際にはもっと雑多な人々が呑みこまれている。本を捜す人、大型スポーツ用品店に行く人、楽器店巡りをする人。まったく毛色の違う人たちが混じり合って、街をカラフルに染め上げている。
破顔一笑して「了!」と叫び、千切れるような勢いで手を振った。その笑顔は、私の中で澱んでいた全ての嫌な気分を洗い流してくれた。
だが、私が浅尾を和ませる一言を考えている間に、彼はぴしゃりと窓を閉めてしまった。
薄いガラス一枚で隔てられているだけなのに、私と彼の間の距離は一気に広がった。
ソファは低い上にクッションが柔らか過ぎ、体がどこまでも沈んでいきそうな感じがする。メモを取るために踏ん張っていると、膝とふくらはぎが次第に緊張してきた。
タイヤがアスファルトを引っかく音で気づいたのだった。
「ああ?」何を聴くんだ。と言いたげに右の眉だけを吊り上げてみせた。
「あんたも俺を馬鹿にしているのか」
彼の目に、薄い涙の膜が張っているのが見えた。怒り。情けなさ。哀しみ。そういうものが彼の内側で発酵し、爆発しようとしている。が、私にはそれを抑える術がないーーとりあえず否定するぐらいだ。
「そんなことはありません」
熱い茶を飲みながら沈黙を共有する。
開け放した窓から緑の濃い香りが部屋に入りこんでくる。
「そうですか? 使える人間がいるはずですよ。使えるなんて言ったら殺されるかもしれないけど」拳を口に押し当て、笑いを噛み殺す。「当てにできる人間、ということにしておきましょうか。それが誰かは、言わなくても分かってるでしょう?」
濃い疲労感が、波になって私の方に漂ってきた。
「一人で大丈夫か」
「当たり前だ。子どもじゃないんだから」言ってみたものの、言葉が上滑りしたのが自分でも分かった。
だが精一杯威厳を保とうとするように、わざとらしい低い声で「はい」とだけ答えた。次の瞬間には尻にピンを刺されたように飛び上がり、直立不動の姿勢になる。
「山口が死んだ」
「知ってる」さらりと言って、冴がビールのグラスを傾ける。形の良い喉が露になった。
行き交う車のヘッドライトが細い線を作り、新宿の夜景に縞模様を作った。
「答えられることと、答えられないことがあります」
「それじゃ困るんだ」北は眉間に皺を寄せる。深い皺には、名刺が何枚も挟めそうだった。
「渋谷にいたのは、私用です」
「私用」粘っこい言葉を吐き出す。私を大事に扱おうとする努力を放棄したのかもしれない。
「でも、仲間じゃないですか」
その言葉が耳から脳へ、そして全身へ柔らかく広がる。周り中から棘で突きまくられているような状態の中、彼女の言葉は唯一と言っていい救いになった。
肩まで伸ばした髪には栄養が行き届いていないようで、しなやかさの欠片もない。その下に隠れた頬は、ノミで抉ったように陰になっている。
初老の男だった。ジャージの上下というラフな格好で、丸い腹が生地を突き上げている。短く刈り上げた髪はすっかり白くなり、顔の筋肉が全体に弛んでいた。
ミックスサンドウィッチとミルクを頼んでおいてから、静かに目を瞑る。疲れが体を食い潰そうとしていたが、眠気は案外遠くにあった。仕方なしに目を開け、店内を見回す。
かなり高齢の男性が、ビールの小瓶一本を持て余している。既に喉元までアルコールが詰まっている様子だ。
やはり酒が入っているらしい二人連れのサラリーマンが突然大声で笑い始めたが、競馬新聞を読んでいる男に一睨みされると、スイッチが切れたように沈黙してしまった。
街のネオンが目を焼く。錦糸町は、上野から東の都内では最大の繁華街といっていい。消費者金融の巨大な看板、パチンコのネオン看板、雑居ビルにパズルのようにはめこまれた飲食店。
「すいません、こういう車上荒らしのようなことは……」
「しょっちゅうあるんですか」
「いや、とんでもない」両の手首を痙攣させるように振った。「初めてですよ」
大西も冴も重い疲労の衣を被っているのだ。
大西が如才なく立ち上がり、ボトルを受け取る。一本を私に寄越すと、自分はすぐに蓋をねじ取って喉を鳴らした。
「あんたの場合は、食べ物を気にする必要なんかないんだろうけどね」彼の目が、羨ましそうに私の腹の辺りを這い回った。