大好きな小説
夏美のホタル 森沢明夫
おすすめ度 ★★★★
「たけ屋」は老いた親子が営む小さなお店ですが、夏美と大学生の彼氏は夏休みに、ここで過ごすことになる。
そこで、夏美は山奥の自然を満喫し、そして「たけ屋」の老いた親子の愛情や優しさにふれる。
それからも夏美は「たけ屋」の親子とかけがえのない関係を築いていくが、ある時、悲しい事件が起こってしまう。
書き出し
コト……。
工房の時代めいた薪ストーブが幽(かす)かな音をたてた。
重なりあって燃えていた薪が崩れたようだ。
ストーブの前で丸くなっていた黒猫の夜叉(やしゃ)が、目と閉じたまま耳だけをピクリと動かした。
深閑として冷え込んだ、山奥の春の夜である。
すっかり冷め切っていて、香りもない安物の茶ではあったが、渇いた喉を滑り落ちる液体の感触は心地よかった。
雲月は「ふぅ」とひとつ息を吐くと、白いものの混じった短いあごひげをじょりじょりと音を立ててなでた。なでながら、目の前の作品をうっとりと眺めた。
「くくく……。後光が、射しやがったぜー」
最後の「あぁ?」のところで、男は真っ正面からこちらをギロリと見据えた。冷たい五寸釘のような視線に射貫かれて、ぼくの喉はきゅうっと締め付けられた。
内側の苛立ちを丸めて吐き捨てるように言った。
気温は打ち上げ花火のようにビューンと一気に上昇していき、午後になると、もはやアスファルトを溶かしそうな勢いだった。
「え、で、でも……」
「入れとけ」
ざらっとした声に、凄みが加わった。
思いがけず、それは軽やかなため息だった。
その切なすぎる音色は、ぼくの胸にタトゥーのように刻まれて、生涯忘れられないものになった気がした。
この店から、夏の匂いが消えた。
「うん……」
「地蔵さん、すごくいいことを言ってくれたんだよ」
「えっ、地蔵さん、なんて?」
「人間ってのは、何かと何かを比べたときに、いつも錯覚を起こすんだって。だから、自分と他人をあまり比べない方がいいって」
夏美は前を向いたまま、静かに月を見詰めていた。
ぼくは勝手にしゃべり続けた。
「他人と比べちゃうとさ、自分に足りないものばかりに目がいっちゃって、満ち足りているもののことを忘れちゃうんだってさ。俺さ、それって、すごくわかる気がするんだよな」
「まあ、そうだよな……」
「生まれてきて、幸せなのかなぁ」
「何が?」
「トンボ」
唐突な夏美の疑問に、ぼくは適当な答えを持ち合わせていなかった。だから、返事が逆に質問になってしまった。
「そもそも、幸せって、なんだ……?」
夏美はトンボの舞い飛ぶ青空を見上げながら、しばらくの間、「なんだろうなぁ」と思案していた。そして、ふいに「はぁ」と明るめのため息をついたと思ったら、ぼくの顔に視線を向けた。
「ん、どした?」とぼく。
「幸せってさ」
「うん……」
「単純にさ」
「うん」
「こういうことかも」
ふいに夏美は、ぼくの手を握った。
そして、ちょっと大きめに手を振りながら歩き出したのだった。
大きく手が振られると、歩幅も自然と大きくなった。夏美の手の温度と、やわらかな感触ーぼくのなかの「気持ち」が、じわじわと弾んでくるのが分かった。
「たしかに、単純なのかもな……」
器械の一定のリズムが、白い部屋のなかに満ちていた。
声を押し殺したヤスばあちゃんの嗚咽だけが、唯一、この部屋でぬくもりをはらんだ音だった。、
コチコチ……と杓子定規に時を刻む柱時計の音が、やけに大きく聞こえた。
「お茶、冷めちゃったね。入れ直そっか」
夏美が最初に口を開いてくれた。
距離を置いたまま無言で見詰め合うふたりの間を、水色のパジャマを着た松葉杖の青年がゆっくりと通り抜けていった。さらに、小太りの看護婦がせかせかと横切っていったとき、女性の表情がすうっと変化した。どこか意を決したように、口を真一文字にひいたのだ。そして、その場所に立ったまま、深々と腰を折ったのだった。
それを思うと、自己犠牲によって美也子さんと息子を救おうとした地蔵さんの離婚の決断すらも、必ずしも百点満点だったとは言えないことになるのではないか。いや、そもそも、完璧な正解など無いのかも知れない。人はきっと、その人生におけるすべての分岐点において、少しでも良さそうな選択肢を選び続けていくしかないのだ。そして、それだけが、唯一の誠実な生き方なのではないだろうか。
足元の草花たちも、みな一斉に枯れてしまった。
春から秋にかけてあれほどまでに謳歌していた無数の生命たちも、冬という季節の圧力に負けて、まとめて地中へと押し込まれてしまったようで、ただでさえ淋しかった山里が、いっそう閑散としてしまった気がした。
夕方になったかな、と思ったら、力ない太陽はいきなり浮力を失って、ストンと一気に山の端に落ちてしまうのだ。
いま、淡いすみれ色に染まりつつある東の空には、一番星がチリチリと瞬いていた。今日も間もなく、冷たくてしめやかな冬の闇が、この小さな山里をぱくりと飲み込んでしまうのだ。
「うわ、やっぱ寒いねぇ」
雲月はぼくの質問に答えず、空き缶をポイと投げてくずかごに捨てた。そして、喪服の胸ポケットからたばこを取り出すと、慣れた手つきで一本くわえ、百円ライターで火をつけた。紫煙をゆっくりと吸い込み、そして、遠い山の方に向かって吐き出した。
雲月は怪訝そうな目をして、ぼくのつま先から頭までを舐めるように見た。