私は定年後の趣味と実益になればと、小説を書くことに挑戦しています。
しかし、出来上がったものを読み返してみると、自分の表現力や描写の稚拙さに
ショックを受けるばかり。
それを学ぶために、小説家の方々の素晴らしい表現、描写をここに残して学んでいこうと思っています。
今回は道尾秀介さんの向日葵の咲かない夏です。
独特な世界観でしたが、表現、描写は学べることが多かったです。
道尾秀介 Michio Syusuke
1975(昭和50)年、東京都生まれ。
2004(平成16)年『背の眼』でホラーサスペンス大賞特別賞を受賞し、デビュー。
独特の世界観を持つ作家として注目。
教壇で、青いジャージ姿の岩村先生が、マジックで描いたような眉毛を上げ下げしながら夏休み中の注意事項を話している。
僕は顎に力を入れて、必死で口を閉じていた。うっかり口をひらいてしまったら、咽喉の奥に抑えこんでいる悲鳴が、歯のあいだを抜けて、一気に洩れ出てしまいそうだった。
窓の外。昼間なのに、灰色の空。荒れた海を逆様にしたみたいな雲が、ずっと遠くまでぐるぐると広がっていて、それがものすごいスピードで、窓枠の中を左から右へ流れている。
手から滲み出た汗が、茶色の封筒に指の形の染みをつくっていた。中まで染みているのではと心配になり、封筒の口から覗いてみたが、どうやら原稿用紙は無事のようだ。
「それはーー本当なんだな」
話の途中から半分浮かせていた腰を、最後には完全に持ち上げて、岩村先生は厳しい顔で僕を見下ろした。僕は涙の味のする唾を呑み込んで、一度だけうなずいた。
受話器を肩に挟むようにしながらメモ用紙に電話番号を書き写し、いったん電話を切ると、すぐさま叩くようにボタンをプッシュする。
ドアをあけると、部屋の中はむんむんしていた。鼻から息を吸い込むだけで、室温が高いのがわかる。
お母さんはその場で僕を見下ろしたまま、唇の端を持ち上げた。両眼が意地悪く吊り上げって、カマキリのようだった。
薄い口をあけて、「まいったね」というように息だけで笑うと、すぐにまたその眼をそらした。
お父さんはのんびりと瞬きをして、肩をすくめるだけだった。
「今日はなんだ、やけに腰が痛えなーー」
枯れ枝のような指先で、泰造はそろそろと腰を摩る。
皺だらけの唇をきゅっとすぼめて、泰造は林道の先に視線を伸ばす。
朝、床を出てから、夜また床に入るまで、腰の周りを粘土で塗り固められたような不快な重量感が、絶えずつきまとっている。そしてときおり、楔(くさび)を打ち込まれたかと思うほどの激痛が、何の前触れもなく襲ってくる。
自宅に到着し、泰造は化粧板の捲れ上がったドアを入った。
ちょうどそこへ、件(くだん)の雌猫が、のそのそと尻を揺らしながら現れた。
「話しちまうべきだったんだろうなぁ……」
せっかく、警察の人間と向き合っていたのだから。
いつかは、話さなければなるまい。
泰造は、粘ついた唾液を呑み、小さく息を吐いた。
僕は自分の心臓が、肋骨の内側で、動物のように暴れているのを意識していた。
お爺さんは少し口ごもってから、「息子さんのことで」と言った。S君のお母さんの唇が、すっと横に結ばれるのがわかった。それから二人は、その場に立ったまま黙り込んでしまった。
S君の家をあとにするとき、僕はなんだか大きな鉄の玉でも呑まされた気分だった。
S君の言葉は、ぽつんと氷の欠片を落としたように、僕の心を冷たくした。
「人間は、嫌だったんだ……」
イビサワは僕の顔に思いっきり自分の顔を近づけてきた。口の中で、唾で濡れた舌がナメクジのように動いているのが見えて気持ち悪かった。
そのときのイビサワの顔は見ものだった。脂肪の垂れ下がった頬がいっぺんに引きつり、期待に輝いていた両眼は、ぴたりと静止して硝子のように色を失い、へらへらと笑っていた唇は、そのままの形で硬直した。
桜、楠、枇杷、山茶花ーー。あまり手入れされていないようで、どれも怒ったように方々へ枝を突き出していた。
言葉を切り、泰造は粘ついた唾液を呑み込む。
「あれは、誰かに話しかけていたんです。私はそう思うんです」
「それってもしかして、あの日の朝のことですか?」
僕がそう訊いたとき、お爺さんの両眼が一瞬、何倍にも大きくなった気がした。
「どうして、そう思うんだい?」
声が、急に低くなる。
お爺さんは僕の顔から視線を外し、傘の柄に乗せた自分の両手をじっと見据えた。しばらくそうしていたあと、喉仏を、ぐり、と一回動かして、また僕に向き直った。
「それは、私にもわからない。ただ、とても気になることだけは確かなんだ。私の思い込みだといいんだが……」
お爺さんは唇を横に結び、ごくりと唾を呑んだ。
アスファルトにゆらゆらと陽炎(かげろう)が立ち昇っている。その中を泳ぐようにして、ようやく図書館のそばまでやってきたときには、僕の全身は汗でべたべたななっていた。顔が蒸しタオルで包まれているようだった。
うなずくことも、首を横に振ることもできなかった。僕はただ口を閉じて、全身を強張らせていた。膝が、がくがくと震えているのがわかった。身体全体が心臓になったように、手が、足が、耳の中が、眼の奥が、どくんどくんと同時に脈打っていた。
もやもやとした思い。ドライアイスから流れ出す、白い霧のように、それは僕の胸の底に静かに広がっていった。
「小母さん、犯人に心当たりはないんですか?」
S君のお母さんは、ゆるゆると首を振った。
S君のお母さんは、痩せた両手を自分の顔に被せた。大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
頭を満たす混乱が、だんだんと、いびつなかたちをとっていくのを、僕は感じていた。
そのいびつなものに、身体を、口を、勝手に動かされているようだった。
「僕は邪魔みたいだから、ここにいないほうがいいね」
空はとても奇麗だった。雲が一つも見当たらず、深い海の底のような、青味がかった黒が一面に広がっていた。その空の真ん中に、タマゴボーロみたいな月が黄色く浮かんでいた。
「どこ行くのさ、ミチオ君」
その声に不安の色が隠れているのを、僕はたしかに聞き取った。
S君に対する怒りは、いろいろな形で、これまで僕の胸の奥底でちりちりと火花を散らしていたのだ。
胸の中で、怒りの感情が花火のように一気に噴き出すのを感じた。視界がカッと白くなり、咽喉の奥に熱いものが込み上げた。
僕を見下ろすお爺さんの眼が、すっと細くなった。濁った硝子玉のような、虚ろな眼だった。
やがて、皺の寄った唇が、ゆっくりとひらき、僕に質問した。
僕は愕然とした。自分の頭の中に、ごちゃごちゃと積み重ねられていた、たくさんの考えが、ぐるりと大きく掻き回されるのを感じた。
ごくりと喉仏を動かして、お爺さんは眉間に深い皺を刻む。
陽が傾きはじめていた。クヌギの枝葉に半分遮られた橙色の光が、窓の外に射し込んでいる。
「そんなことがあったのか? いつ?」
両手を座卓の上に叩きつけるようにして、お爺さんは僕に向かって上体を乗り出す。両眼が大きく見ひらかれ、唇が隙間をあけて震えている。
十本の指が、顔の前でぶるぶると震えていた。お爺さんは、心底から怯えているようだった。
「ーーわかったよ」
やがて、S君が言った。深い穴の底から聞こえてくるような、暗い、無感情な声だった。
「嘘をつくのは、もうやめるよ」
太陽を正面に見て、泰造はクヌギ林の林道を歩いていた。行く手の落葉が、落日を吸って橙色に光っている。ヒグラシの澄んだ声が、暮れかかる空に、吸い込まれるように響いていた。
ミチオの眼に一瞬、鋭い色が映り、すぐに消えた。
首筋に楔(くさび)を打ち込まれるような衝撃を、泰造は感じた。視界に映る薄暗い景色が、ぐらりと揺らぎ、立ち並ぶ木々やミチオの顔が飴のようにひしゃげる。
「ここからが重要だよ」
ミチオの口調は、ふたたび平坦な、無感情なものに戻っていた。
陽は沈み、薄闇が周囲を取り囲んでいた。木々の輪郭も、対峙する少年の表情も、しだいに曖昧になりつつあった。
泰造は、両足を折り、その場にしゃがみ込んだ。両手で口を覆い、鋸(のこぎり)を引くように繰り返される、激しい呼吸の音を封じ込める。
風の中に、銀色の線のような細かい雨粒が混じってきたので、僕は窓を閉じた。